「乾杯」
お互い、カチンとグラスを合わせる。
一週間前は葉月がかなり酔っていたこともあって、こんなふうにお酒を味わうという雰囲気はなかったが、今夜は違う。
「さっき、忙しかったって言ってたけど」
「うん、仕事がね。これでもあたし、会社を経営しているの」
「えっ、女社長?」
服装からして普通のOLではないなと思ってはいたが、まさか社長だったとは…。
驚きと共に、でも彼女は相当気が強そうだから、社員はさぞかし大変だろう。
青は、要らぬ心配をしてしまう。
「その顔は、こんなあたしが社長なんかやってたら、部下が大変だろうとか思ったでしょ」
「いっ、いや。俺はそんなことは…思わないぞ?その若さで社長とは、大したものだなぁと思っただけで…」
どうやら青は、思ったことをすぐ口に出してしまう性格らしい。
それに、嘘がかなり下手だということも。
「いいわよ、本当のことを言ってくれて。多分、みんなもそう思ってるわ」
葉月はキールのグラスを目線の高さに持ってくると、ルビー色のそれをじっと見つめる。
この2年、会社を大きくすることだけを考えて、ただがむしゃらに頑張ってきたけれど、自分のやり方に不満を持っている者がいないとは限らない。
まぁ、この気の強さを見れば、それを知らない青がそう思っても仕方がないだろう。
「社長は、そのくらいでないとな」
「そうなのかな」
「そうだよ。葉月が思うようにやればいいさ」
不思議だけど、青に言われるとこのままでいいのかなって思う。
こんな自分に黙って付いてきてくれる杏子には、感謝しなければならない。
ところで、青はどんな仕事をしているのかしら?
「ねぇ、青は何をしている人なの?」
「俺?俺は、不動産関係の仕事をね。一応、名刺を渡しておくよ」
青から受け取った名刺には、『帝国アーバン・ディベロップメント 取締役統括マネージャー』と書いてある。
帝国アーバン・ディベロップメントと言えば、不動産をはじめ日本でも有数の大規模都市開発を手掛ける企業。
最近では大都市の一等地を再開発して、人気のスポットに生まれ変わらせたのは有名な話。
この若さでそんな大企業の取締役となれば、相当なやり手に違いない。
「青って只者じゃないと思ったけど、すごい人なのね」
「社長の君に比べれば、大したことないさ」
「社長って言ったってね、社員はアルバイトを入れても100人いないんだから」
「あたしも恥ずかしいけど、名刺渡しておくわ」と葉月はバックからカードケースを取り出し、その中の1枚を青に渡す。
「ヴェンティセッテ?って、イタリア語で27ってこと?」
「さすが、青。27歳の時に会社を始めたから、単純でしょ」
「そっか。で、何をする会社なんだ?」
名前だけでは何をする会社なのかさっぱりわからないが、社名を取ったようにイタリアからコーヒーを輸入し販売するのが主な事業。
近々、このコーヒーを使った本格派のエスプレッソコーヒーを気軽に楽しめる店をOPEN予定。
この準備で、忙しく駆け回っていたのである。
「うん。イタリアからコーヒーを輸入して販売してるんだけど。今度、本格的なエスプレッソを気軽に楽しめるお店をOPENする予定なのよ。そうだ、青も良かったら来て?」
「そうなんだ。それは、おめでとう。是非、行くよ。で、いつなんだ?」
「えっとね。15日なんだけど」
「15日かぁ」
明日から2週間、ニューヨークに行かなければならず、残念ながら15日には戻ることができない。
こんなことなら、出張の日程を少し早めるんだった。
これは自分で決めたことだから、今更どうこう言っても遅いけれど…。
「ごめん。俺さ、明日から2週間、仕事でニューヨークなんだ」
「ニューヨーク?」
「あぁ。もう少し早く聞いていたら、日程を変えることもできたんだけど」
「いいわよ、そんなこと。それより、明日からニューヨークなんて…こんなところで飲んでいる場合じゃないでしょ?」
だからさっき帰ろうとしていたのだと、葉月は思った。
それを無理に誘ってしまい、準備だってあるだろうに…。
「平気さ。昼のフライトだし、空港までたどり着ければ後は寝てるだけだからな。それより、行く前に葉月に逢えて良かった。このまま逢えずに行ったら、仕事にならなかったと思う」
店のOPENには行くことができないけれど、出張に行く前に逢えて良かった。
正直、この一週間もあまり仕事が手に付かず、このままニューヨークに行っていたら、大事な買収交渉に支障をきたしていたかもしれない。
「大げさね」
こんな言い方をしているが、本心は青と同じ。
葉月だってこの一週間、張り詰めた空気の中で店のOPENに向けて最終調整を行ってながらも、ふと彼のことを思い出して手が止まることもしばしばだったのだから。
「なぁ」
青の手が葉月の手の上に重なる。
しかし、その後は言葉に詰まってなかなか言い出せない。
外見から自信たっぷりに女性を口説いているのだろうと思っていたが、案外そうでもなさそうだ。
「俺の家に…って言ったら、怒る?」
「え?」
―――俺の家って…。
まだ逢うのも2回目で、お互いのことをようやく知ったばかりなのに彼の家に行くということは…。
明日から当分の間、顔を見ることはできないのだから、もう少し一緒にいたいという気持ちもないわけでもない。
でも…。
「ごめん。俺、葉月を困らせてるよな」
離れていった青の手を、慌てて葉月が握り締める。
咄嗟にしてしまったが、だからといってこういう時何と言うべきなのか…。
「葉月?」
「行ってもいいの?迷惑じゃない?」
「迷惑なんて…っていうか、本当にいいのか?」
言葉にするのが恥ずかしくて、俯きかげんに葉月は小さく頷いた。
あまりの嬉しさにガッツポーズでもしたい気分の青だったが、ここは大人を装って彼女の手に指を絡める。
こんなにも、愛しい気持ちになるのはどうしてなのか…。
一目惚れというか、これはもう運命の出逢いとしか思えない。
青は葉月の手を握ったまま店を出るとタクシーを捕まえ、二人を乗せた車は真っ直ぐに夜の街に消えて行った。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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