LAST Valentine Day
STORY4


「兄貴、兄貴ったら」

「早くしないと会社に遅れちゃうわよ?」と妹のひなに言われて、隼人はハッと我に返る。
ボーっとしていたせいで食べ掛けのトーストはすっかり冷えて固くなっていたが、それを頬張るとコーヒーで胃袋に流し込んだ。

「ねぇ、どうしたの?最近、考え事ばかりで。何かあった?」

ひなが食べ終えたテーブルの上の食器をシンクに運ぶ。
ここのところ兄は毎朝こんな調子で心配していたのだが、男性には女性にはわからない事情が色々あるだろうし、あまり口を挟むのも良くないと敢えて言葉には出さなかった。
これは社会人の彼氏と付き合い始めて学んだことだったけれど、あまりにも長引いているようなので…。

「そうか?そんなこともないと思うけど」

「仕事は取り敢えず順調だよ」と言ったものの、気付かないうちに妹にまで入らぬ気を使わせてしまったなと隼人は急いで洗面所に向かったが、ふと鏡を見つめたまま手が止まる。

「本命チョコの彼女と何かあった?」

いつの間に後を付いて来たのか、洗面所の戸口からひなが覗き込んでいる姿が鏡に映る。
―――どうして、朝倉のことだってわかるんだよ。
これも、女の勘なのか?

「どこから、本命チョコの彼女が出てくるんだ」

鏡に映るひなに向かって隼人はそう言うと歯ブラシを湿らせ、歯磨き粉のチューブを絞って口に銜えた。
腕時計の時刻はいつもより5分ほど進んでいたから、このままだと一本電車に乗り遅れる。

「何となく?」
「それより、お前だって悠長にしてる場合か?今日は当番だから早く行くとか言ってたんじゃ―――」
「あっ、そうだった」

「急がなきゃ〜」と慌てて支度をし始めた妹に自分も同じだったと、隼人も手を速めた。



「オイ、城野。聞いたか?朝倉のこと」

結局一本電車に乗り遅れた隼人は朝、自販機の前でコインを入れたままどれにしようか悩んでいると自分を探していたのだろう、船箕(ふなみ)が顔色を変えてやって来た。
そんな彼に「何を?」とまるで知らないフリをして返した隼人だったが、言わんとしていることを本当は知っている。
それは、彼女自身から既に聞いていた事項なのだから。
しかし、どこでそういう話を聞きつけてくるものか…。

「彼女、結婚するらしいぞ」
「結婚…そうか」

結局、毎度同じブラックのボタンを押すとガシャンと音を立てて缶が落ちる。

「何だよ、驚かないのか?」
「そりゃあ、年頃なんだから結婚くらいしてもおかしくないだろ」

内心穏やかでないことを悟られないように缶を手に取って、隼人は側に置いてあるベンチに足を組んで腰掛けた。
「そうだけどさぁ」と隼人の反応がイマイチだったのがおもしろくなかったのか、船箕(ふなみ)はズボンのポケットをジャラジャラさせながらコインを取り出し自販機に入れ、炭酸飲料のボタンを押した。
彼は年中それを飲んでいる気がするが、まだこの時期冷たいものは寒くないのだろうか?
余計なお世話だが…。

「どんなやつなんだろうな?相手の男って」

隼人の隣に腰掛けて、船箕(ふなみ)は缶のプルタブを引く。
喉を鳴らしながらぐびぐび飲んでいる姿を見ると、よっぽど水分が足りなかったのか。

「さぁな。朝倉のことだから、きっといい男なんじゃないのか?」
「そうだよな。でも、あんなに仕事も頑張ってるのに結婚はともかく辞めるかもしれないって噂だし、彼女が専業主婦って何か想像できないんだ」

確かに船箕(ふなみ)の言うように彼女と結婚はあまり結びつかないような気がするのは確かで、ましてや会社を辞めて専業主婦は益々想像つかないだろう。
誰もが認めるいい女ではあったが、反面仕事もバリバリこなすキャリアウーマン的存在の彼女が寿退社なんて…。

「俺達には、わからないことなんだろうな」
「てっきり、朝倉は城野狙いなんだと思ってた」
「はぁ?」

―――何をいきなり、どこからそんな理論が成り立つんだよ。
船箕(ふなみ)が変なことを言うから、危うくコーヒーを噴出すところだっただろうが。

「そんな気がしただけさ」
「あり得ないだろ。あいつが俺なんか」

そうだ、あいつが俺なんか―――。

隼人はコーヒーを一気に飲み干すと勢いよくベンチから立ち上がった。


あの晩、彼女は―――。

『あたし、今度の日曜日にお見合いすることになってて。偶然なんだけど、相手の人は大学の先輩で顔見知りだったの。素敵な人だっていうことはわかってるし、断る理由もないから。海外転勤が決まったとかで、すぐに式を挙げて付いて行くことになると思う。今、会社を辞めるのは心残りなんだけど』

その後のことは彼女から聞いていなかったが、船箕(ふなみ)の話では言っていた通りになったということだろう。
『簡単に結婚を決めても、いいのか?』そう返したものの、隼人がそれ以上言う理由が見つからない。
―――だったら、どうして俺に本命まがいのチョコレートなんか…。
そう言葉が出掛かったが、言えなかった。

ただ、彼女が幸せになってくれさえすれば。

それでいい。

+++

「まだ、居たのか」

給湯室で紫苑(しおん)が売店で買って来たカップラーメンにお湯を注いでいると、「嫁入り前の娘が目の縁に隈作って、夕飯はカップ麺かよ」と入って来た側から隼人の手にも同じものが。

「城野こそ。可愛い可愛い妹さんが、夕食を作って待ってるんじゃないの?」
「俺の帰りが遅いのは知ってるからさ、夕飯はいらないって言ってるんだ」
「あら、優しいお兄様なのね」

なぜか、紫苑(しおん)の口からはこんな憎まれ口しか出てこない。
…妹さんに妬いたってしょうがないのに。

「どうせ、あいつは彼氏と食ってくるんだろうし」

隼人は、カップ麺のラップを剥がして蓋を開けると湯沸かし器の蛇口からお湯を注ぐ。
あの日以来、こうして二人っきりで話すのは久し振り。
それにしても、結婚相手はこんな彼女の姿を見てどう思うのだろうか?

「心配でしょ」
「そうでもないさ。男がいない方が逆に心配かもしれないけど、あいつは性格から多分、堅実なやつを選んでると思うよ」
「心が広いお兄様だこと」

二人は、並んでカップ麺を持ちながら移動する。
自分の席で食べても良かったけど、どちらからともなく空いていたミーティングルームに足を向けた。

「あぁ〜お腹空いた。いただきま〜す」

パチンっと割り箸を割って紫苑(しおん)はスープを一口。
…これが最後の晩餐になったとしたら、何だか寂しいわね。
目の前にいる彼と一度くらい食事に行ってみたかった。

「結婚、おめでとう」
「えっ、あっ…でも、まだそこまでは」

不意をつかれて紫苑(しおん)はどもってしまう。
『するかも』という話を友達にしたら、おしゃべりな彼女はあっという間に広めてしまい…実はまだ、相手にはっきり返事をしていない。
土壇場になって決断できない自分がいて…。

『簡単に結婚を決めても、いいのか?』

この言葉が心のどこかに引っ掛かっていたのかもしれない。
これが、自分の中で最後のケジメのチョコレートだった。
渡せば吹っ切れる、そう思ったのに余計に想いが募るとは…。

そっと視線を向けると、ズルズルっとラーメンを啜る隼人。

「あたし、城野が好きだった」

何事もなかったように紫苑(しおん)はラーメンを啜る。

隼人の気も知らないで―――。


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