キッカケは雨。
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「おはようございます」
「あぁ、常盤さん、おはよう。もう、風邪はいいの?」
「はい、おかげさまで」

若社長の家に一晩泊まり、もちろん彼は隣に寝るようなこともせず、ソファーに寝たようだったけれど。
次の日にはお姉さんを呼んでくれて自宅アパートまで送ってもらい、一日休んですっかり体調も良くなった。
早めに出社して若社長にお礼を言おうと来てみたのだが…。

「若社長は」
「それがね、昨日は大変だったのよ」

若社長の秘書である小平(おだいら)さんは秘書暦30年のベテランで、50を過ぎているが40半ばにしか見えないとても若々しくて上品なオバサマ。
そんな人が鼻の穴を広げて興奮気味に話すのは、余程のことがあったとみえる。

「どうしたんですか?」
「ほら、よく来る夏目さんって営業マンの。常盤さんは知ってる?結構、男前よね」
「え…夏目…さん?」

椎名の顔が一瞬曇ったのは、夏目というのは取引先の営業マンでよく秘書室にも顔を出す、小平(おだいら)さんの言うように男前で爽やかで気さくな男性だが、何を隠そう彼こそが椎名の元彼で二股を掛けていた張本人なのだ。
初めは調子がいいところがあると警戒していたのに、まんまとその罠に引っ掛かってしまったのは職業柄なのだろうか、相手を落とすまで諦めない粘り強さに根負けしたから。

「殴っちゃったのよ」
「殴ったって?」
「若社長がね、夏目さんを殴っちゃったの」
「えぇっ?!ど、どうして」
「私はその場にいたわけじゃないんだけど、側にいた人の話だと、いきなり若社長が夏目さんに殴り掛かって『男として恥ずかしくないのか』って叫んでたらしいわよ」

椎名は彼が二股を掛けていた話を若社長にしたのは確かだが、取引先の営業で出入しているとは言ったものの、プライバシー上、名前は一切出していない。
小平(おだいら)さんの聞いた会話から判断しても、殴った理由は恐らく椎名のことを思っての行動だったに違いない。
しかし、どうしてまた殴るなんて。

「で、どうなったんですか?」
「慌てて、みんなで止めたって。若社長は特に怪我もなく、夏目さんは唇を切ったくらいで済んだけど、警察沙汰にまではならなかったものの、大事な取引先だし、傷害罪で訴えるとかなんとか。もう大騒ぎになってね」
「若社長は?」
「処分が下るまで無期限謹慎中。当分は顧問が社長を兼務するって」
「あぁ、なんてこと」

私のせいだ…。
あんなロクでもない男のためにどうして、若社長がこんな目に遭う必要はないのに。
こうしちゃいられない。
椎名は急いでコーヒーを入れると顧問の部屋に行く。

「おはようございます」
「おぉ、常盤君。風邪だっていうから心配していたんだが、もう体の方はいいのかい?」
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。若社長のおかげで、すっかり良くなりました」
「尚の?」

「はい」椎名はカップをデスクの上に置く。

「若社長は私のことを思って、あのような行動に出てしまったんだと思います」
「詳しく聞かせてもらえるかな」

椎名の入れたコーヒーを美味しいといって褒めてくれる顧問はとても優しいが、仕事に関してはとても厳しい一面を持っている。
若社長が例え、椎名のことを思って出た行動だったとしても、暴力を振るったことを決して許しはしないだろう。
だからといって、黙って見ているわけにはいかないのだ。

「若社長が殴ったという夏目さんと私は、お付き合いをしていました。初めはお断りしていたんですが、熱心に口説かれるうちに人柄に惚れたというか」

本当はずっと若社長のことを想っていたなんて口が裂けても言えないが、手の届かない雲の上の人より、現実を受け止めて目の前で自分を想ってくれる人の方を選んでしまったのだ。

「一年以上お付き合いしていましたが、彼が他に付き合っている人がいることが分かって。今思えば、こんなに自分は好きだったのにというよりは、私はずっと何も知らずに騙され続けていたのだという気持ちの方が強かったんでしょうね。自分自身も許せなかったし、雨の中を傘もささずに歩いていたところを見つけた若社長が気遣って車に乗せてくれたんです」

実際、本当に好きだったのかと聞かれれば即答できる自信はないし、あのまま、ダラダラと付き合い続けなくて良かったのではないか。

「それで熱を出してしまい。お姉さんにまでお世話になった上にこんなご迷惑をお掛けしてしまって」
「そうか、そういうことがあったのか。あいつがこんなに熱い男だとは正直思ってなかったんだ。殴ったことに対して頑なに謝罪を拒否してな。余程の事があったのだろうと推測はしていたんだが」

父親の秘書ということも多少はあったかもしれないが、自分の会社の社員が弄ばれていたという事実を黙って見過ごすわけにはいかなかったのだろう。
暴力で対抗しようとしたことに賛成はしないが、内心では息子のやったことは間違っていないのではないか。
こんな可愛い子を悲しませた男を一発殴りたい気持ちは父にもよくわかる。

「これから、若社長はどうなるんでしょうか?」
「なんにせよ、暴力はいかんからな。向こうも頭に血が上って告訴するとか言ってたが、弁護士を通じて和解の方向で進めてもらうようにはするつもりだ。君の心配はいらんよ、腕の立つ弁護士だから悪いようにはならないだろう」

事情が事情だし、相手側も強くは言えない立場ではある。
多少のお金で解決できるものなら、それは致し方ない。

「私のせいなんです。私のせいで」
「トップたるもの社員の手前、少しの間は頭を冷やしてもらわんとな」

常に冷静に物事を判断できるようでなければ、社長は務まらない。
いくら社員のことを思ってやった行為とはいえ、トップが取るべき行動とは到底思えないし、反省するべき点はしっかり反省してもらはなければ。

「若くして社長を押し付けた私にも責任がないわけじゃない。あいつは頑張り過ぎるところがあるから、たまには休憩も必要なんだ」
「じゃあ、また若社長は戻って来られるんですね」
「その間の教育を君に頼んでもいいかな」
「はい?」

教育って…どういうこと?

「簡単だよ。当分の間、息子の面倒を見てくれるだけででいいから」


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