「ごめん…」
「澤山さんにとって、謝ることなんですか?」
「あっ、いや…」と口籠ってしまった澤山は、とにかく慌てて千夏(ちか)から体を離そうとしたが、しっかり首に回った腕を彼女の方がそうさせてはくれなかった。
『いや、だって。あんなにいい女なのに?こう、男の本能みたいのが、ムラムラっときたりしないのかよ』と言っていた翔平じゃないが、今の澤山は正しく本能で動いていたかもしれない。
だからといって、軽い気持ちではなかったけれど、彼女が自分など相手にしないのではないか。
一時の気の迷いとか…。
「じゃあ、どういう?」
「あまりに君の唇が魅力的でキスしたかったから、じゃ納得してもらえないかな」
「唇だけ?」と口を尖らせて不満そうに笑う彼女の、その全てを欲しいと思ったが、こんなふうにそれこそ本能だけで突き進んでしまっていいはずがない。
「これ以上、俺を誘惑するのはやめてくれないか」
「私は誘惑なんて、してません」
―――何よ、いきなり誘惑なんて。
せっかく、いい雰囲気だったのに人のこと性悪女みたいな言い方しないで欲しいわ。
『あまりに君の唇が魅力的で』とか言いながら、キスしたのはどっちよ。
私だって、ちゃんと…。
「なら、遊びはここまで」
今度こそ、澤山は千夏(ちか)の腕を解くと「仕事があるから」と言い残してプールから上がってしまう。
その後姿をじっと見ていたものの、一人取り残された千夏(ちか)は途方に暮れるしかなかったが、気まず過ぎてこれからまだ数日間ここに居なければならないことを思うと一気に憂鬱な気分になる。
決して誘惑なんてしたつもりはなかったが、好きでもない相手とキスなんかしない。
あんなキスは初めてで、離れたくなかった。
―――澤山さんだって、きっと。
同じ想いだったはずなのに…何よ、あの言い方。
千夏(ちか)は、そのまま勢い良くバシャっと水中に潜ると暫く浮かんでこなかった。
+++
あれから部屋に篭ったきり、澤山さんは一度も部屋から出て来ない。
そろそろ夕食の時間だったが、普通の顔をして誘う勇気は今の千夏(ちか)にはなかった。
柚季(ゆき)ちゃんを誘うことも考えたが、彼氏とバカンスに来ているところをやはり邪魔するわけにはいかない。
――― 一人で夕食も寂しいけど、本来ならこうなるはずだったんだもん。
仕方ないわよね。
それに、部屋に居るのも何か息苦しさを感じて外に出ることにする。
とはいっても夜に一人で出歩くのはちょっとということで、ホテル内の最高級レストランへ予約を入れた。
最後の夜に彼と二人で行けたらいいなという密かな願望はすっかり泡と消えてしまった今、こうなったらヤケ食いというところだろうか。
その後は、確かホテル内にカジノもあったはずだし、あとはバーにも行って大人の時間を楽しむの。
もしかして、澤山さんよりずっとずっと素敵な男性(ひと)との出会いがあるかも?しれないし。
日本に帰ってからじゃ、着る機会はないとわかっていながら買ってしまった黒のドレス。
背中も大きく開いていて、ちょっとセクシーなのよね。
一人で張り切っても虚しいだけだけど、これもみんなあの猛獣男が悪いんだからっ。
「わっ、何?」
千夏(ちか)は着替えを終え、部屋のドアを開けて出たところに立っていた澤山さんに驚いて持っていたバッグを床に落としてしまったが、「ごめん。驚かせて」と落ちたバッグを拾ってくれた彼は、一体、何の用があってこんなところにいたのだろうか。
「何か、用ですか?」
「そんなにオメカシして、どこかに出掛けるのか?」
「私がオメカシしようとしまいと、澤山さんには関係ないと思いますけど」
目も合わせず、千夏(ちか)は礼も言わずに澤山さんからバッグを受け取ると、そそくさと出て行こうとするが、それを阻むように彼が立ちはだかる。
「まさか、翔平と」
「え?」
―――澤山さんは、薄井さんと出掛けると思ってるのね?
そっか、その手があったんだ。
すっかり忘れてたわ。
今から連絡したら付き合ってくれるかしら、薄井さん。
「だったら、どうだって言うんですか?」
「ダメだ、あいつは。大体、君は俺を誘惑しておいてだな。次は、翔平だなん―――」
バチっ!!
「痛ってぇ」
大きな音が響き渡り、左頬を大げさに押さえる澤山、それは千夏(ちか)が思いっきり彼の頬をひっぱたいたから。
「ひどいっ!!澤山さんからキスしてきたクセにっ。全部、私が悪いみたいな」
「いや、それは―――」
「言っときますけど、薄井さんとは約束してませんから。ほんとは最後の夜に澤山さんを誘ってディナーに行きたかったけど、あんなことになっちゃって。つまんないけど、一人で行くしかないじゃない。それなのに…澤山さんなんて、大っ嫌い」
―――わざわざ、そんなことを言いに部屋の前で待ち伏せしてたわけ?最低!!
何なの?あの言い草はっ。
「痛ってぇ」
―――え?私、叩いてないけど。
部屋に戻ろうとドアを閉めたところで、どうやら彼が後を付いてきていたのに気付かず挟まったらしい。
肩を押さえている。
「あっ、何でそんなところに居るんですか」
「ちゃんと話をだな」
「話なんてする必要ないと思いますけど。今更」
「ごめん。俺の早とちりみたいだ」
「早とちりみたいなんじゃなくて、早とちりなんですぅ」
―――謝ってもらっても、もう遅いわよ。
もう一度、キスしてくれなきゃ…。
「お話はそれだけなら、私、お腹空いてるんで行ってもいいですか?」
「あっ、あぁ」
小さく溜め息を吐くと千夏(ちか)は彼の前を通り抜けようとしたが、再び腕を掴まれて進めない。
―――はぁ…澤山さんは、どうしたいの?
人に誘惑するな、遊びは終わりだって言ったり…。
「今度は、何で―――っん…」
きつく抱き寄せられて貪るようなくちづけは、プールでのものとは全然違う。
それは怒っているようでいて、でもとても優しくて…。
しかし、千夏(ちか)は彼の背中に回しそうになった腕をかろうじて止めた。
―――だけど、騙されちゃだめ。
ここで返したら、またひどいこと言われるに決まってる。
「このキスは、どういうつもりですか?私を試して楽しんでるんだったら」
「俺には、そんな器用なことはできないよ」
「だったら」
「もう一度、俺のことを誘惑してくれないか?他のヤツに君を持っていかれるくらいなら、いくらだって」
答えの代わりに千夏(ちか)の方からくちづけると、二人抱き合ったまま寝室のベッドに雪崩れ込んだ。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
誤字が多く、お見苦しい点お詫び申し上げます。お気付きの際はお手数ですが、下記ボタンよりご報告いただければ幸いです。
NEXT
BACK
INDEX
EVENT ROOM
TOP
Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.