10時少し前にセルフォン本社に着くようにホテルを出たが、さっきの礼がなんだかいつもと違っていたようで伊万里には少し気掛かりだった。
セルフォン本社は、パリの中心部にあって重厚な趣の建物に歴史の重さを感じる。
二人は、車から降りると気を引き締めて中へ入って行った。
受付の女性に名前を告げるとすぐに応接室に案内された。
―――セルフォンの社長って、どういう人なのかしら?
まだそれほど歳を取っていない社長だった父親が、病気を理由に会長職に退いたことで息子が社長に就任したという話だけが伝わっていた。
伊万里はジュリアンという名前に聞覚えはあったのだが、それは遠い昔の話。
中学でパリに来た時、すぐ近くに住んでいた伊万里より何歳か年下の小学校に通う男の子だった。
確か母親とまだ小さかった妹の3人暮らしで、父親はいなかったように思う。
初めからジュリアンと呼んでいたから、彼の苗字はあまり記憶に残っていないが、ル・フォールではなかったはず。
異国の地に着いたばかりでまだ友達のいない伊万里に一番初めに声を掛けてくれたのは、小学生のジュリアンだったなと当時を懐かしく思い出す。
伊万里の母も海外生活には慣れていたものの、フランスは初めてということもあってジュリアンの母親によく相談していたが、何か事情があったのだろう一年ほどでどこかへ越して行ってしまった。
それ以来、消息はわからない。
―――ジュリアン、今頃どうしているのかな?
そんな思い出に耽(ふけ)っていると部屋のドアが開いて、GMのデュボワ氏が入って来た。
すぐ後に社長であろう人物が入って来るのと同時に礼と伊万里が、椅子から立ち上がる。
一瞬にして、部屋にピリピリとした空気が流れた。
「遠いところから、ようこそいらっしゃいました。また、お会いできて嬉しいです」
重苦しい空気を吹き飛ばすようにデュボワ氏が、穏やかな口調で話し掛けてくれる。
日本での和やかな雰囲気が、再び思い起こされる。
「社長のル・フォールです」
デュボワ氏に紹介されて、社長のル・フォール氏が一歩前に出て来ると礼に握手を求める。
「初めまして、セルフォン社長のジュリアン・ル・フォールです」
若いとは聞いていたが、まさかこんなに若いとは正直思わなかった。
聞いたところ29歳だという話だが、まだ20代の半ばくらいに見える。
ブロンズ色の髪は一見無造作に見えるが計算されたものなのだろう、長身でスラッとした体型の言われなければモデルだと勘違いしてしまうくらい、いい男だった。
そしてなによりもエメラルドグリーンのような瞳は、一度見たら忘れない…。
なんと表現していいのかわからないが、ル・フォール氏というのは今までのセルフォンの製品からは想像できない人物であるということに間違いはないだろう。
「こちらこそ、初めまして。三谷貿易社長の三谷 礼と申します。お会いできて、光栄です」
つい伊万里はル・フォール氏に見惚れていたが、そこは社長の礼、落ち着いたものである。
こういう時に女は男に惚れ直すのだなと思う。
そしてル・フォール氏は、伊万里の方へ来ると握手と共に発せらた言葉に耳を疑った。
「久しぶりだね。イマリ」
「え?」
まるで昔からの知り合いのような口調に周りも、そして当の伊万里も驚きを隠せない。
が、まさか…。
「忘れちゃったのかい?僕だよ。イマリがパリに越して来た時にすぐ近くに住んでいた」
―――やっぱり…。
彼の瞳を見た時に思い出したのだ。
遠い昔の記憶にあった、ジュリアンのものと同じだと。
「うそ、あのジュリアンなの?」
「そうだよ。懐かしいな、イマリにまた会えるなんて思ってもみなかったよ」
二人の会話がいまいち飲み込めていない、礼とデュボワ氏は呆気に取られるばかり。
ジュリアンは、この二人がいなければ仕事なんかそっちのけで伊万里と積もる話に花を咲かせるところだが、そういうわけにもいかない。
「今度ゆっくり話をしよう。その前に仮契約を済ませてからにしないと。一応前置きしておくけど、僕はイマリのことを知っているからミタニとの契約を進めようとしているわけじゃない。これはあくまでもビジネスだから」
そう言ってジュリアンは微笑むとさっきまでの顔とは別の社長の顔になる。
4人は席に着き、礼はデュボワ氏とクレマン氏が来日した時に話したことと同じことを確認の意味でジュリアンに話すと彼も聞いていたことに間違いはないということで、なんの問題もなくお互い仮契約書に署名を済ます。
昼食を挟んでかなり長い間行われたが、この調子でいけば相当いい感じで話は進んで行くだろう。
三谷側はこれから製造会社を探さなければならないという問題も抱えているが、ジュリアンはいくつか知り合いの会社を紹介してくれると約束してくれた。
未開拓の地で、ましてや日本企業ともなれば強いバックがなければ相手も身構えてしまってなかなか契約をしてくれる会社は少ないだろう。
そういう意味でも彼の言葉は今後プロジェクトを進めて行く上で、かなり優位になると思われる。
「セルフォンはミタニと組むことで、更なる発展を確信しています」
「こちらも、同じ思いです。両社のために最善を尽くすことをここでお約束します」
ジュリアンと礼が固い握手を交わすとここでやっと契約が結ばれたのだなと実感する。
来る前の不安は、もう今の礼と伊万里にはなかった。
あとは、ただひたすら前に進むのみである。
「イマリ、パリにはいつまで滞在予定なんだい?」
部屋を出て行こうとした時、ジュリアンに呼び止められた。
今回の予定は、今日の仮契約と明日はセルフォンの店舗と工場を見学させてもらうこと、あとは市場視察とでもいうべきか街を見て回ろうという計画だった。
「一応、明日一杯のつもり。明後日夜の便で、東京に戻る予定なんだけど」
「明日は、うちの店舗と工場を見学予定だったよね。その後、夜に少し時間を取れないかな、話をしたいんだけど」
そうジュリアンに言われて、伊万里は礼に視線を向ける。
短い期間ではあったがせっかくパリに来たのだから、礼と二人で過ごしたいという気持ちがなかったわけではない。
が、ここで断るわけにはいかないだろう。
伊万里自身も20年ぶりに再会したジュリアンともっと話をしたかったし、あとは礼次第である。
それを察した礼はちょっと表情を変えはしたが、小さく頷いてくれた。
「わかったわ」
「明日はデュボワとクレマンに案内させるから、今日は出張でクレマンは不在だけど日本で会っているから知ってるよね。車でホテルまで迎えに行かせるよ」
「デュボワさん、クレマンさんと二人をよろしくお願いします」とジュリアンが言うとデュボワ氏が、「はい、わかりました」と返事を返す。
明日は今日と同じ10時という約束で、礼と伊万里はセルフォン本社を後にした。
◇
「しかし、ル・フォール社長と伊万里が知り合いだったとはな。でも、何で今まで黙ってたんだ?」
ホテルに向かうタクシーの中で、礼がこんな偶然があるものなのかとさっきの出来事を思い返していた。
しかし、伊万里がジュリアンと知り合いだったなら、なぜ今まで自分に言わなかったのだろうか?
伊万里が彼と対面した時には、まるで知らない人間という素振りだったのもおかしいと言えばおかしいし…。
「私もまさかって、思ったもの。確かにジュリアンっていう名前は覚えていたんだけど、私が知っているジュリアンは、ル・フォール姓は名乗っていなかったのよ」
「え?」
―――ル・フォールではなかった?
謎の多い人物であることに間違いなかったが、一体それはどういうことなのだろうか?
そして、礼がもう1つ気になっていたのは、伊万里を見つめるジュリアンの視線だった。
あれは懐かしい友人を想うのとは、何かが違うように礼には思えてならない。
明日の夜二人っきりで会わせることに少なからず抵抗はあったが、そのことについては今は考えないことにする。
礼は、隣にいる伊万里の指に自分の指を絡ませると少しだけ力を入れた。
伊万里が、いつまでも自分の隣にいてくれることを信じて。
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