「まさか、お母様に会えるとは思っていなかったわ。でも、相変わらず綺麗だし料理も上手ね」
「料理は、あの人の趣味みたいなものだからね。ところで、イマリ。ちょっとだけ話したいんだけど、いいかな?」
腕時計の針は、22時を指そうとしているところ。
―――礼は、もう帰ってるかしら?
ふと礼のことが頭を過ぎったが、伊万里もジュリアンとはあまり話すことができなかったと少しだけならとそれを受け入れた。
車はセーヌ川沿いに差し掛かると静かに止まり、二人は車を降りる。
こんな時間だというのに辺りは、ようやっと夕闇に変わろうとしているところだった。
「僕がセルフォンの社長だって、思わなかっただろう?」
伊万里もそれはとても気になっていたことだったが、プライベートなことと敢えて口にはしなかった。
「うん。ジュリアンって名前を聞いた時には思い浮かんだんだけど、まさかあのジュリアンだったなんてね」
「本当は、僕が継ぐはずではなかったというか、前社長には子供がなくてね。それで僕のところに回ってきたんだ。イマリも気付いているだろう?あの時と名前が違うこと」
「えっ、うん…」
「母はル・フォール家の出身だったんだけど、あの容姿だからね。相当、色々なところから縁談が来ていたんだ。だけど、その時母は付き合っている人がいて…」
ジュリアンの母親は、ル・フォール家の長女として生まれ、何不自由なく育った令嬢である。
彼が言うように今でもかなり美しいのだから、若い時は相当なものだったのだろう。
そして、あの上品さは生まれもったものだと改めて思う。
名の通った家柄から縁談の話が後を絶たなかったが、彼女にはその当時付き合っていた人がいて相手は特に家柄もない法律家を目指す若者だった。
そんな相手との交際を両親が認めるはずもなく…二人は、駆け落ち同然で家を出ることになる。
なんとか父親も無事に職業に就いた頃、ジュリアンが生まれそれなりにも3人は楽しい生活を送っていたのだが、幸せはそう長くは続かず父は不慮の事故でこの世を去った。
今更ル・フォール家に戻ることができない母とジュリアンは、二人で生活をするしかなかった。
伊万里が出会ったのは、ちょうどその頃になるだろう。
数年でそこを離れたのは、ジュリアンの祖父が亡くなったという知らせを聞いたからだった。
その当時祖父と一緒に暮らしていた伯父は、祖父が亡くなったことで母とジュリアンを呼び寄せ一緒に暮らしてくれたのだ。
伯父夫婦には子供がなくジュリアンをとても可愛がってくれたし、また幼くして父を亡くしたジュリアンにとっても伯父は父親同然の存在たった。
母は未亡人となっても亡き父の名を名乗っていて、本来であればジュリアンもそうなのだが、今は伯父の養子という形を取っている。
まだそれほど歳をとっているわけでもないのに突然自分は引退するからと言って、社長の座をジュリアンに譲った時には周囲からの反発もあったのだが、伯父には今のままのセルフォンではダメなことが既にわかっていたようだった。
現にセルフォンは、ジュリアンが社長を継いでからの方が評判もいいし、売上も伸びている。
これはある意味、礼と同じなのかもしれない。
「そうだったの…。急にいなくなっちゃったから、どうしたのかなって思ったんだけど」
話を聞き終えた伊万里は、ジュリアンの母親が家を捨てて愛を貫いたのだと知り感動すら覚えたが、その後の苦労を思うと胸が詰まる。
明るい人だったから、全くそんなふうには感じなかった。
それは、恐らく伊万里の母も同じように思っているだろう。
「でも、今は幸せにしてるから。あとは、可愛いお嫁さんと孫を見せろって、伯父さんもママもうるさいんだ」
「そうね、早く跡取を作って、二人を安心させないと。ジュリアンは、そういう人いないの?」
「僕?いないなぁ。ママは自分のこともあるから相手を選んだりはしないし、伯父さんも同じだけど。そういうイマリは、相手がいるのにどうして結婚しないんだ?」
「え?うん。ずっと長い間一緒にいたんだけど、互いの気持ちを知ったのはつい最近だから」
「それって、ミタニのこと?」
昨日会っただけなのにジュリアンには、伊万里と礼の関係が仕事以上のものだということをわかっていた。
というより、ジュリアンだからこそわかったのかもしれない。
「わかった?」
「あぁ。ミタニったら、僕の様子をうかがっているようだったからね。今回の契約の件にイマリは関係ないって言ったけど、あのミタニを見たら思わずこの話はなかったことにって言いそうになったよ」
そう言って笑うジュリアンだったが、実は本気でそう言いそうになったことは伏せておいて欲しい。
「そうなの?」
「今だから言うけど、イマリは僕の初恋の相手だったんだ。日本人が周りにいなかったから、初めて見た時なんていうのかな、黒い瞳に黒い髪っていうのがカルチャーショックだった」
小学校の高学年で初恋というのは少し遅いのかもしれないが、周りに可愛い子がいてもジュリアンはなんとも思わなかった。
それが伊万里を見た時、一瞬にして恋というものを知ったのだった。
「えー、ほんと?」
「そうだよ。それにすごく優しかったからね。僕のお嫁さんにするって言ったの覚えてる?」
―――お嫁さん?
そう言えば、そんなようなことを言われたような気もするが…。
でもそれは、子供の頃なら誰でも口にするようなことではないかしら。
「そんなこと言った?」
「言ったよ。僕は、ずっとそう思ってた。だから、デュボワさんとクレマンさんが日本に行った時にミタニと話をして、その時一緒にいたというイマリの名を聞いた時には、運命だって思ったやっと会えたんだって…。でも、それは叶わぬ恋ってことかな」
「ジュリアン…」
「だからって、僕は仕事に私情を挟むつもりはないよ。新しい製品作りは、自分を試すにはいい機会だし、セルフォンのためでもある。っていうのは建前、本音を言うとかなりへこんでるけどね。こうしてイマリが目の前にいるっていうのに…」
抑えていたものが一気に溢れ出したジュリアンは、思わず伊万里を抱きしめる。
「ちょっ、ジュリアン?」
「ごめん…。最後に少しだけ、このままで…」
ジエリアンの気持ちを察した伊万里は、それ以上何も言わずにそっと彼の背に自分の腕を回す。
自分より小さかったジュリアン。
それが今は、反対に伊万里がすっぽりとおさまってしまうほど彼の体は大きくて…。
最後にもう一度確かめるようにジュリアンは、伊万里を抱きしめると惜しむように体を離す。
それでもジュリアンは、伊万里から目を離すことができなかった。
ごく自然に二人の顔が近づいていった時、一台のタクシーが横を通り過ぎた。
『あれは…伊万里…』
外灯はあったが既に辺りは暗がりで、車内にいた礼にははっきりと顔までは見ることができなかったが、間違いなく伊万里だった。
自分のために用意していたというあのワンピース…見間違うはずがない。
しかし、二人は抱き合っていて…そして…キス…していた…。
そんなはずはない…そう信じたい礼だったが、たった今映った光景が夢であって欲しいと願うしかなかった。
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