時刻は21時を少し回ったところでそれ程遅い時間ではなかったから、伊万里は三谷に誘われて落ち着けるバーに足を運んだ。
「あぁ〜、疲れたぁ」
「いや、ほんとご苦労さん。伊万里がいなかったら、ここまで話が進まなかったよ」
「そうよ、いい部下を持って感謝してよね」
「してる、してる」
「なんか、心がこもってないわね」
「そんなことないよ。短い準備時間であれだけデュボワ氏と対等に話ができるなんて、普通じゃできないことだもんな」
伊万里が数時間の間にどれだけの情報を集めて頭に叩き込んできたことか、考えただけでも頭が下がる思いだった。
「やるからには、妥協できないもの。でも、これからが大変よ。三谷社長の腕の見せ所ね」
「そうだな、せっかく伊万里が作ってくれたチャンスだからな。とにかく頑張るしかない、かな」
これからの前途を祝して三谷が選んだのは、偉大な女性という名の『-LA GRANDE DAME- ラ・グランダム』、今の伊万里に最も相応しいシャンパーニュで乾杯する。
こんなふうに二人で飲むのはかなり久しぶりのことと、改めて伊万里は思う。
大学時代はこうやってよく飲みに行ったりもしたが、会社に入ってからは三谷は後継者一直線でとても友達面などできなかったから。
「久しぶりね、こうやって社長と飲むのも」
伊万里はゴールドに輝くグラスを顔の辺りにかざしながら、しみじみと言葉を発した。
「二人の時は社長って呼ぶのやめてくれないか、何か壁みたいなものを感じて寂しい気持ちになる」
「だって、社長じゃない」
「昔みたいに礼って、呼んでくれよ」
大学時代、伊万里は三谷のことを礼と呼んでいた。
決して男女の関係にはならなかったが、自然とそう呼んでいたように思う。
「はいはい、まったく社長は我侭なんだから」
また社長って呼んでと言うが、伊万里は社長と呼ぶことで心のどこかで一線を引いていた。
礼と呼べば、気持ちがいらぬ方向へ進んでしまうような気がして、怖かったからだ。
などと考えていると三谷が、不意に口にした。
「伊万里は、結婚しないのか?」
「ちょっちょっと、何を急に言い出すのよ」
今までそういう話をしなかったわけでもないが、こう面と向かって、それも重要な商談がまとまるかまとまらないかという今、する話じゃないだろうに。
「いや。もういい歳なのにさ、ひとりっていうのもどうなのかなって」
「いい歳って、それセクハラよ」
別に結婚しないわけじゃないし、かといってしたいという願望もない。
仕事に生きる女を目指すつもりもないが、今はひとりが気楽だから。
遊びだけの男ならすぐにでも見つかる伊万里には、結婚という紙切れ一枚で縛られたくはないのだ。
「そうじゃないんだ。もし、付き合ってるやつがいないなら俺との結婚を真剣に考えてくれないか?」
「え?」
反射的に三谷の方へ顔を向けると真剣な眼差しの彼と視線がぶつかった。
この目は冗談を言っているのではないことを十数年の付き合いで伊万里は言われなくてもわかっていた。
「俺じゃあ、そういう対象にはならないか」
「それは、こっちの台詞。私じゃ、そういう対象にならないんじゃないの?」
いつも一緒にいたが、いつだって三谷は伊万里に手を出すことはなかった。
それが、女性としてどんなに寂しいことか…。
恐らく三谷は、気付いていないのだろう。
「そんなこと、絶対にない。俺は、いつだって伊万里を魅力的な女性だと思ってた」
「嘘、礼は一度も私に手を出さなかったじゃない。それなのに今更そんなこと言われても」
「手を出さなかったんじゃない。出せなかったんだよ」
「え?」
―――出せなかった?それって、どういうこと…。
「伊万里は俺にとって誰よりも大切な存在で、簡単に手を出すわけにはいかなかったんだ。だから、この会社にも入社させた。それって、何でだと思う?」
三谷は初め、自分が三谷貿易の後継者だと伊万里には言っていなかった。
同じ名前にもしもという疑いはあったが、それ程気にすることでもないと伊万里は特に聞きもせず、誘われるままに入社試験を受けた。
それはある意味、三谷と離れたくないという気持ちが伊万里のどこかにあったからかもしれないが…。
「知らないわよ、そんなこと」
「俺の目の届かないところに行かせたくなかったからだよ」
「はぁ?」
―――目の届かないところに行かせたくないって。それって、どういう意味?
「いつか誰かに持っていかれるんじゃないかって、いつもハラハラしてた。伊万里が本気で男と付き合わなかったことだけが、救いだったよ」
三谷は思惑通り自分の会社に伊万里を入社させたものの、派手な素行に内心気が気でなかったのだ。
大学時代は決してそんな遊びで男と付き合うような女性ではなかったのに突然変わってしまった伊万里に益々手が出せなくなっていた。
ただ本気で相手にしていないことだけが、三谷にとって救いだったことは確かだった。
「そんなこと信じられない。だって、礼は大学時代から私以外の色んな子と付き合ってたじゃない」
伊万里のことを想っていたというわりに親しくするようになってからというもの、たくさんの女の子と三谷は付き合っていた。
それは会社に入ってからも、風の噂で耳にしていたから。
「それは…伊万里の気を引くためだよ。なのに、お前ったら全然普通にしててさ」
―――そんなの知らないわよ。
それにね、普通にしてたって言うけどそんなわけないでしょ。
もしかして…なんて勘違いした時もあったけど、あんなふうに女の子と付き合ってる姿見せ付けられて平気でいられるわけないじゃない。
「普通ってね。人がどんな思いで平静を装ってたかなんて、礼にはわからないわよ」
「伊万里、もしかして」
―――もしかして、伊万里は俺のこと…自惚れてるって、思ってもいいのか?
「あぁ〜、なんか馬鹿みたい。本当は、こんなふうに仕事に生きる女になんかなるはずじゃなかったのよ。誰のせい?私をこんな女にしたの」
ギロッと横目で伊万里は、三谷を睨む。
伊万里は、こんなふうにキャリアウーマンになるつもりなど全くなかった。
それは、三谷に対し何でもいいから自分を認めてもらいたいという気持ちがどこかにあったからかもしれない。
―――なのに今頃そんなことを言い出すなんて…。
「俺の…せい…か?」
「そうよ、責任取ってもらわないと。こんな30過ぎた可愛くない女なんて、誰ももらってくれないんだから」
わざと強がった言い方をする伊万里が、三谷には可愛くて仕方がない。
伊万里は自分のことを可愛くないなどと言っているけれど、それが逆に三谷のツボに嵌っているということを彼女はわかっていないのだろう。
「俺にとって、伊万里はすっごく可愛いよ。責任取って一生幸せにする、約束するよ。だから、俺のお嫁さんになってください」
まさかこんなところで、告白&結婚の申し込みをされるとは誰が予想しただろうか?
今日一日あまりに色々なことがあり過ぎて、伊万里には全てを処理するには既に許容範囲を超えつつあった。
しかしひとつ言えることは、今日起こった出来事は伊万里にとって全て嬉しいことだということ。
幸せ過ぎてどうしていいかわからないとは、まさにこのことだと思った。
伊万里は、返事の代わりに三谷の首にそっと手を回して少しだけ自分の方に引き寄せると唇に触れるだけのキスをおとす。
一瞬にして不意をつかれた三谷は、かなり間抜けな顔をしていたと思う。
―――やっぱり、伊万里には敵わない。
三谷は、思う。
伊万里なしでは仕事も私生活も全て成り立たないダメ男なんだと今更ながら思い知らされる。
そしてたった今幸せにすると誓った以上、もっと大きな男になること。
その前になんとしても、セルフォンとの契約を結ばなければ。
そう心に誓う三谷だった。
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