LA GRANDE DAME
Story8


「嶋崎課長、おめでとうございます」

朝、会社に出社すると開口一番、こんな言葉を口々に掛けられた。
――― 一体、何がおめでとうなのかしら?
セルフォンとの契約はまだ正式に交わされていないし、このことは誰も知らないはず。
なのに周りの自分に対するこの対応は、なんなのだろうか?

「何が、おめでとうなの?」
「え?課長、じゃなくって、今日からは事業部長ですね。聞いて、いらっしゃらないんですか?」
「事業部長?!」

「社内イントラに、載ってますよ」と言われて、急いでパソコンを立上げるとTOPに掲載されていた新設部門及び人事異動の件という項目が目に飛び込んできた。
人事異動については管理職に事前に報告があるが、今回の件は聞いていない。
余程、急な人事でもあったのか…。
とにかく開いてみると目に飛び込んできた文字に伊万里は、目を丸くした。



【新設部門】

食品事業部を第一食品事業部と第二食品事業部に分割し、新たに第二食品事業部内にセルフォン・プロジェクト室を設立する。


【人事異動】

嶋崎 伊万里
自動車輸入事業部課長より、第二食品事業部長兼セルフォン・プロジェクト室長に任命する。



「はぁ?」

―――何これ…。
聞いてないわよ、こんな話。
食品事業部を二つに分ける話は薄々聞いていたが、その事業部長に自分がなるなどという話は一切聞いていない。
それにセルフォン・プロジェクト室などというものを現時点で作ってしまっていいのだろうか?
というか、その前に部長を差し置いて事業部長に就くなどという人事は普通あり得ないだろう。
―――礼ったら、勝手にこんなこと決めちゃって。
どうするのよ。
私が、こんな責任の重い職務に就けるわけないのに…。

アポを取っていないので部屋にいるかはわからなかったが、とにかく伊万里は事実を確認すべく社長室へと向かった。

「おはようございます、嶋崎事業部長。社長が、お待ちですよ」

受付の女性が発した言葉に思わず足を止めた。
既に課長ではなく事業部長という肩書きで自分を呼ぶこともさることながら、伊万里がここへ来ることを彼女は知っていた。
―――何?私がこうやって来ることをわかってたっていうの?
礼、ったら…。
今回の件で、伊万里がすぐに社長室にやって来るであろうことを礼は初めからわかっていたのだ。
わかっていて受付の女性に言付けていたとは…。

伊万里は、社長室のドアをノックすると相手の返事も聞かずにおもむろに勢いよくドアを開けた。

「ちょっとっ。私が、事業部長ってどういうことよ。それにセルフォン・プロジェクト室なんて、まだ契約できるかどうかもわからないのに作ってもいいわけ?」
「おはよう、伊万里」

呑気に挨拶を交わす礼に向かって、私は相手が社長でここは社長室なのだということも忘れて一気にまくし立てる。

「朝からそんな怖い顔して、せっかくの可愛い顔が台無しだぞ?」
「どうせ可愛くないから、いいのよっ。で、なんなの?この人事は。私、こんな話聞いていないわよ」
「言ってないからな」

しれっと言いのける礼にさすがの伊万里も呆れて言葉が続かない。

「そう、カリカリするなって。そんなところに突っ立ってないで、座ったら?今、コーヒーを持って来させるからさ」

礼はそう言うと電話でコーヒーを持ってくるように秘書室の女性に頼む。
その際、嶋崎事業部長はだいぶ興奮しているようなのでミルクを多めになどと余計なことを付け加える。
この前、礼が朝から迫って来た時に伊万里が言ったことのあてつけなのだろう。
―――ったく、礼のやつ…。
でも、頬杖をつきながらにっこり微笑む彼を見ると何も言えなくなる。
わかってやっているんだか、いないんだか…。
伊万里は素直に礼の言葉に従いつつ、一応ジロっと人睨みしてソファーに腰を下ろす。
これは、すぐにコーヒーを持って来るであろう女性に不審に思われないためだからとの意味を込めてなのだが。

暫くして持って来たコーヒーを飲みながら、ホッとひと息吐いた。
出社するなり社長室に押しかけたから、悔しいけれどミルク多目のこれはありがたい。

「昨日、セルフォンのル・フォール社長から電話があったんだ。うちとの契約を前提に話を進めるって。近いうちに仮契約を済ませる約束は、取り付けたから」
「えっ、本当?」

本当にそこまで話が進んでいるのなら、こんなに嬉しいことはないのだけれど…。

「だから、これは当然の人事なんだ。伊万里なくして、このプロジェクトはあり得ない。そして社長命令だから、誰にも文句は言わせないさ」

今までの経緯を知らない者は伊万里に対して何らかの陰口を叩く者がいるかもしれないが、そんなことは礼が社長として絶対にさせないつもりである。
このプロジェクトは伊万里なくしてなど進めることはできないし、あり得ないのだから。

「大丈夫だよ。伊万里ならできるし、総責任は全て社長である俺が負う。何も心配することは、ないんだ」

力強い礼の言葉に伊万里もこの時ばかりは、彼の大きさを感じずにはいられなかった。

「ってことで、今夜は前祝いとでもいこうか」
「もうっ、まったく調子いいのね」

何でも1人で決めちゃってと伊万里は思ったけれど、こういう強引なところも好きになった理由のひとつなんだから仕方ない。

「高柳さんに頼んでおくから、定時になったらすぐに出られるようにしておいてくれ」
「こんなプライベートなことまで、高柳さんに頼むの?」

高柳というのは、40歳を少し過ぎた総務部庶務課長兼秘書室長である。
温厚な人柄だが的確な判断力と豊富な人脈と知識で、礼が社内で最も信頼している人物である。
だけど、こんなプライベートまでも彼に頼るというのはどうなんだろうか?

「そうなんだけど、俺達が勝手に動くと色々面倒なこともあると思うんだ。だから、高柳さんにはこれから先も力になってもらわないといけないと思ってる」

伊万里の心配もさることながら、二人の関係は今の時点でまだ表に出すことはできない。
高柳には迷惑な話だと重々承知しているが、彼を頼る以外にないと礼は思っているし、また彼ならきっと力になってくれると信じていた。

「セルフォン・プロジェクトを成功させるためにも高柳さんの力を借りないといけないと思う。それ相応のポストは、用意するつもりだから」

高柳の肩書きは庶務課長兼秘書室長であるが、礼は今回セルフォン・プロジェクトに彼も参加させる意向だった。
今後はフランスでの製造会社を探さなければならないし、セルフォン側に協力するには、彼の経験は必ず役に立つはずだから。
そして、それ相応のポストもきちんと考えていた。

「それなら、いいんだけど。後で、あたしも高柳さんのところに挨拶に言ってくるわね」

高柳は外見も40過ぎにしてはなかなかダンディで、社内でも密かに人気があるのを伊万里も知っていたし事実そう思っていた。
そのわりに娘が3人もいるというのを聞いて驚いていたのだが、たまに総務部に出かけると声を掛けてくれたりして後で行く用事があったから、ついでに彼のところに挨拶に行こうと思う伊万里だった。


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