LA GRANDE DAME
Story9


伊万里が総務部に足を運んだのは、午後になってからのことだった。
あの人事が発令されてから今の今までずっと訪問者の相手をさせられていたのだが、こんなにも相手の態度が違うことに少なからず戸惑いを覚えたのも事実。
あれだけ伊万里に批判的だった人物達が、言葉は悪いが手のひらを返したように協力的な発言を繰り返す。
これが、巨大組織の中で仕事をしていくという本質なのだと頭ではわかっていても割り切れないのは確かだった。



「高柳さん。今少し、お時間よろしいですか?」
「これは、嶋崎さん。いいですよ、私もちょっと休憩をしようと思っていたところです」

「では、カフェテリアでもいかがですか?」と言われて、二人は社内にあるカフェテリアへと向かった。
高柳は伊万里のことを以前から課長とは呼ばず、さん付けで呼んでいた。
それは、伊万里が課長になりたての頃、高柳のところへ行った時に彼の方からそう呼ばないで欲しいと言われたからだった。
『堅苦しい呼び方は、好きじゃないんで』と笑いながらその時高柳は言っていたけれど、それは誰に対してもそう言っているわけではないことを伊万里は知っている。
高柳自身も伊万里とは上辺だけの付き合いではなくなることを薄々感ずいていたからかもしれないが、この時はまだお互いそこまでは気付いていなかった。

カフェテリアに着くとカウンターで高柳がコーヒーを2つ頼んで何も言わずに清算を済ませようとしたので、伊万里は慌てて声を掛けた。

「高柳さん。自分の分は、払いますから」
「これくらい、いいですよ。それより、勝手にコーヒーを頼んでしまいましたが、良かったですか?」

高柳のスマートな言い回しに伊万里もそれ以上しつこく言うことはせず、ありがたく受けることにした。
二人は、カップの乗ったトレーを持って窓際の席に座る。
周りには同じように休憩をしに来たのか、受付の女性や書類を並べながら真剣な表情で話をしている。
あれは、上司と部下だろうか?の姿が目に入る。

「すみません、奢っていただいて。それにお忙しかったのでは、ないですか?」
「いえ、誘ったのはこちらですからね。実のところ嶋崎さんがいいところに来てくれて、助かりましたよ」

「朝から芳川(よしかわ)部長の機嫌が悪くて、困っていたところです」そう言いながら高柳は、ノンフレームのメガネに指を添えて苦笑する。
どうやら総務部長である芳川の機嫌が悪かったらしく、伊万里が来たことで逃げの口実になったらしい。

「それより、事業部長昇進おめでとうございます。あのセルフォンとの契約にこぎつけるなんて、さすがですね」
「ありがとうございます、とは素直に喜べないんですけどね。それにまだ仮契約の話が出ているだけで、契約が確定したわけではないので…」

冷めないうちにと伊万里は、コーヒーに口をつける。
今朝からの慌しさから開放されて、やっと落ち着けた気がした。
礼は当然の人事なんだと言っていたが、どうしても伊万里にはそんなすごいことをしたという実感はないし、仮契約をする話をつけただけでまだ早すぎるのではないかと思っていた。

「そんなことは、ないと思います。三谷社長は、きちんと考えた上での人事でしょうから」

礼はまだ30前半とこれだけの企業を支える社長にしてはかなり若いが、それだけの器を持っていることを高柳は知っている。
時々、想像もつかないことをやってくれるが…。
そして、伊万里にも社長としての礼を支える力とそれ以上のものがあることを。

「どうしたんですか?いつもの嶋崎さんらしくないですね。そんな顔をしているところを社長が見たら、落ち込んでしまいますよ」

―――また、呼び出されて散々飲みに付き合わされてしまう…。
これは口に出して言いはしなかったが、礼は伊万里に内緒で高柳を呼び出しては飲みに連れ出していた。
もちろんここだけの話、二人の関係も知っている。
というかその前から、色々聞かされてはいたのだが…。
そんなことをうっかり言おうものなら後で何をされるかわからないから、高柳は敢えて知らないフリを通すことにした。

「そうですね、そうなんですけど…。でも、高柳さんに迷惑をかけてしまうと思うと…」

既に礼から高柳には話がいっているだろうことを思うと伊万里は、申し訳ない気持ちで一杯だった。

「迷惑だなんて、そんなこと全然思っていませんよ。私は、三谷社長に付いて行くと心に決めていますから。そして、嶋崎さんにもね」

さらっと言う高柳だったが、普通こんな言葉を簡単に口に出せるものではない。
高柳は、礼の父親で現会長を務める三谷 新(みたに しん)が社長である時から秘書室長をしていた関係で、三谷との関わりは誰よりも深い。
これは現社長にも言えないことだが、特に会長からは社長を頼むと社長職を退く時に念を押されていた。
だからこの言葉に嘘偽りはないつもりだったし、礼だけでなく伊万里に対してもそれは同じだった。

「高柳さん…」
「今夜は社長の希望で、レイチェルホテルの最上階スィートを予約しています。あそこは夜景が最高ですし、一流のシェフが作る料理も絶品ですからね、ゆっくり楽しんできてください。定時にタクシーを裏口に用意させますから」

高柳への感謝の気持ちとこんなプライベートなことまでさせてやっぱり申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、なにもあんな高級ホテルのスィートを予約させなくても…。
後で、礼に少し言っておかなければと思う伊万里だった。

+++

遅れるとうるさいからと伊万里は、さっさと仕事を片付けてフロアを後にした。
いつものことだから周りもさして気に留めていないところが、この時ばかりはありがたい。
ビルの裏口に行くと高柳が用意させたであろうタクシーが、既に伊万里の来るのを待っていて、伊万里が乗り込むとすぐに車が動き出す。
―――スィートってことは、泊まるってことよね。
はぁ…。
まあ、幸か不幸か明日は祝日で礼のマンションに行くことは決まっているのだから、別に構わないけど…。
やっぱり社長などやっている者が考えることは、世間一般からは到底かけ離れているとしか思えない。
などと考えているとすぐにレイチェルホテルの前に車が到着した。
さすがとしか言いようがないが、伊万里が何も言わなくても専用のエレベーターに乗って最上階のスィートルームへ案内された。
あれからあまりラフな格好で会社に出勤することがなくて、本当に良かったと思った。
窓から見る景色はだいぶ日が延びてまだ夜景を見るには少し早い時間だったけれど、遠くの方が薄っすらと赤く色づき始めていた。
暫く眺めていると部屋のブザーが鳴り、礼が来たことを知らせる。
案外早いわね?と思ったが、彼が自分に会うために急いで来てくれたのかと思うと自然に頬が緩む。
それを言うと絶対暴走するに決まっているから、口にはしないけれど。

「意外に早かったのね。もっと、遅くなるかと思ったのに」
「遅くなって、ごめんな。出ようと思ったらさ、いきなり芳川部長が来て予算がどうのってうるさいんだよ」

さっき高柳と話をした時も芳川部長の機嫌が悪いと言っていたが、礼のところまでそれが来たとは…。

「ううん、そんなことないわよ。それより、何で前祝いがスィートなの?」
「そりゃ、この場合そうだろう?」

『そりゃ、この場合そうだろう?』って当たり前のように言うが、その理論が伊万里には理解不能なのだが…。
ということは、これから仮契約が済んで本契約なんてことになったら一体何をするのだろうか?
考えただけでも、すごいことになりそうだわ…。

「伊万里」

礼は、伊万里の名前を呼ぶと腰に腕を回して自分の方に抱き寄せてすかさず唇を奪う。
いくら電話で毎日話していても会社で顔を合わせても、こうやって触れられるのは休みの前だけ。
伊万里の全てを知ってしまった今、礼にはこの瞬間が待ち遠しくて仕方がないのだ。

「ちょっと、礼ったらっ。先に食事は?ここの料理はシェフが一流だから絶品だって、高柳さんが言ってたけど」

―――また高柳さんは、いらぬことを…。
と礼は思ったが、こうなったらやめることなんてできるはずがない。

「確かに料理も絶品なんだけど、俺には伊万里の方が絶品だから」

絶品って…あたしは食べモノじゃない!って思ったけど、こんなふうに言う礼がやっぱり好きだから。

「もうっ、知らないわよ。あたし、今すっごくお腹空いてるんだからね。後でなんて焦らしたら、一杯食べちゃうんだからっ」
「いいよ、いくらでも食べて」

クスクスと笑いながら、礼は再び伊万里にくちづける。
その柔らかい唇を堪能するように何度も何度も角度を変えて。
―――『後でなんて焦らしたら、一杯食べちゃうんだからっ』って言うことは、その前にヤってもいいってことだよな。
自分から礼のツボに嵌るようなことを言っているなどとは気付かない伊万里が、やっぱり愛しくて仕方がない。

しかし、後で本当に伊万里が驚くほど食べたのには礼も驚いたが、それは誰のせい?と逆に言い返されて返す言葉がなかったことは言うまでもない。


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