高度4万フィートの恋
Flight2



昨晩はバスタイムに時間を掛けたもののすぐに眠りについた寿珠(すず)、今朝の目覚めは快適だったが、ふと角田(かくた)が言い残した『聞きたかったら、曽根 泰之との食事の誘いは断ること』という言葉を思い出した。
仮に100歩譲って曽根との食事を断ったとして、それを角田にイチイチ報告しなければならないのだろうか?
―――そんな馬鹿な。
あの男に仕事以外のことで自ら声を掛けるなどということは、あり得ない。
角田が代わりに食事にでも誘ってくれるというのなら、話は別だが…。
益々もって、そんなことはあり得ないだろう。
だったら、曽根と食事を楽しんだ方がどんなに有意義な時間を過ごせることか。
寿珠は取り敢えず、カプチーノにありつくためにレストランへ行くことにした。

「寿珠、こっち」
「あぁ、絵里子」

先に朝食を取りに来ていた絵里子に答えて、寿珠はバイキング形式でテーブルの上に並べられたペイストリーとフルーツなどを皿に載せ、トレーを持って彼女の斜向かいに腰を下ろす。
通り掛かった若いボーイにカプチーノを頼むと、朝から素敵な笑顔を向けてくれた。

「おはよう」

「おはよう。昨日は早く寝ちゃったの?携帯に電話したのに」と絵里子に言われ、すっかり携帯電話すら見るのも忘れていたことに気付く。
あまり朝は口にしない寿珠とは対照的に、彼女は卵やらハムやらがしっかり皿の上に並んでいる。

「ごめん、お風呂に入ってそのまま寝ちゃった」
「ねぇ、チーフ何だって?」

電話をしてきたのは、これを聞くためだったのかと寿珠は今頃理解した。
別にたいした話でもなかったと思うが…だからといって正直に話せば、いらぬ詮索を受けるに決まってる。


「私が気に入らないみたい」
「そんなことないでしょ。寿珠は完璧だもの」

『ほら、絵里子だって』と心の中で毒づいていると、さっきの若いボーイがカプチーノを持って来てくれた。
彼も寿珠に気があるのだろうか?
素敵だと思っていた笑顔が、どこか嘘っぽい。

「角田チーフには、そうは思ってもらえてないのよ」

普段はブラックコーヒーを好む寿珠も、かなり甘めのカプチーノを口に含むとイタリアに来たという実感が沸いた。

「今のボーイだって、寿珠のことジッと見てたじゃない。チーフだって、まんざらじゃないと思うけど」
「あのチーフに限って、それはないわ」

見てるは見てるけど、角田の視線は軽蔑の眼差しに近い。
いや、近いなんてものではなく、恐らく彼が一番好まない女性は寿珠のようなタイプと断言できる。

「それより、今夜は曽根様とディナーなんでしょ?いいなぁ、寿珠は」
「そこなのよ」
「えっ、もしかして断るつもり?」
「そういうわけじゃないんだけど…」

あの男の忠告など無視したところで、寿珠に不利になるようなことはないはずだ。
なのになぜか心の片隅に引っ掛かって、絵里子にこんな曖昧な返事をしてしまったのはなぜなのかもわからない。

「まぁ、あれだけお金も持ってて、いい男だもん。絶対遊んでるだろうし、油断は禁物よね」
「遊びで来てるわけじゃないから。これが日本だったら、話は別なんだけど」

キャビンアテンダントという仕事に誇りを持っているし、機内ではお客様の命を預かっているという責任がある以上、この地での火遊びは禁物だ。
彼が日本に帰国した時なら、何の問題もないのだが…。

「確かにね、もったいない気はするけど。どっちにしても、夕方までは時間があるんでしょ?だったら、それまでショッピングに付き合ってよ」

興味津々という様子で聞いていたクセに、既に彼女の頭の中には今回のフライトでゲットする予定のグッチの新作バッグしかないようだ。

―――私もプラダの欲しいバッグがあったのよ。

「プラダにも、付き合ってくれるなら」
「もちろん、オッケーよ」

今の二人が量りにかけたら、男よりブランド物が勝利するのは確実だろう。

―――とはいっても、どうしようかしら。
曽根様の誘いを断るべきか、それとも…。

+++

結局、今夜のことで頭が一杯だった寿珠は、プラダの欲しかったバッグにも全く魅力を感じず、何も買わずに店を出た。
どうして、ここまで悩む必要があるのだろう。
今までの彼女なら、何も考えずに誘いに応じ、後腐れない楽しい時間を過ごしていたはずなのに…。

「円高の影響で随分安かったわ。って、聞いてる?」
「えっ、何?」

上の空でちっとも話を聞いていない、そんな寿珠を見るのは恐らく絵里子も初めてだったかもしれない。

「どうしたのよ、プラダのバッグも買わなかったし。それとも、調子悪いの?」
「ううん。実際見たら、そこまで欲しくなくなっちゃった」
「なら、いいけど」

二人はローマにい来ると必ずと言っていいほど食べに行くピザの店でランチを取ると、寿珠はもう一回りしてくるという絵里子と別れ、一人先にホテルに戻ることにする。

―――やっぱり、今回は断ることにしよう。
自分から誘っておいて悪いとは思いつつも、ベッドの隅に腰掛けて携帯を取り出すと彼の番号に電話を掛ける。
すぐに出た彼に適当な理由を付けて今夜は行けなくなったことを伝えると、残念そうな言葉が返ってきたものの、それは決まりきった社交辞令の言葉に過ぎなかった。
寿珠は、彼の付き合う多くの女性の中の一人。
そして、想像以上にホッとしている自分、今はその方が都合がいいと思えてしまうのは、なぜなんだろう…。

「チーフ、これでいいんでしょ」

誰かれとなく寿珠は携帯電話に向かって言葉を投げつけたが、その後、自分でも驚くべき行動に出ていたことに気付いたのは角田の声が聞こえた時だった。

『上田さん、上田さん?どうしたんだ?』
「えっ、チーフ。何で…」

―――何で、チーフが電話に…。
さっき、曽根様と話していたはずが…。

『何では、俺が聞きたいんだけど』
「あっ」

―――やだ、私ったらチーフに電話を掛けちゃったの?
なんてことを…。
無意識に角田の番号を選んで通話ボタンを押していた自分を心の中で責めたが、掛けてしまったものは仕方がない。

「すみません、お忙しいところ」
『いや、ちっともお忙しくないが』
「チーフの言いつけ通りに曽根様の誘いはお断りしましたので。一応、ご報告まで」

むっとしながら、それだけ言って電話機を耳から離して切ろうとすると『なら、その時間は空いてるんだ』という角田の言葉が聞こえてくる。

「それは、チーフが代わりに誘って下さるということでしょうか?」

もう一度、電話機を耳に当てて、そんなわけないと思いながらも、嫌味の一つも言っておかなければ気が済まなかった。

『5時に外の道一本右に曲がったところにあるバールで待ってるから』
「はっ…ちょっ、チーフ?!」

「チーフっ」って…。
―――あぁ〜ぁ、切れてるし…。
それより、本気で誘うつもり?!
信じられない…。
もしかして、何かの罠?!

寿珠は大きく溜め息を吐くとベッドにごろんと横になった。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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