寿珠(すず)は、あのままベッドで眠ってしまったようで、気が付けば時計は夕方の4時半になろうとしているところ。
咄嗟にあんなことを口走ってしまったものの、よく考えてみれば、チーフはバールで待っていると言っただけであって、曽根の代わりに豪華なディナーに誘ってくれるとは限らない。
―――取り敢えず、行ってみるしかなさそうね。
わざわざ着替えるまでもなく、さっき絵里子と出掛けた時のラフなジーンズ姿のまま、鏡の前で髪を整え適当に化粧直しだけして行くことにした。
ホテルのロビーで見知った顔に出会わなかったことが救いだったが、それでも辺りをキョロキョロしながら、外の道一本右に曲がったところにあるバールのドアを引く。
ここは古くからあるバールで、ホテルの宿泊客や地元の人達でそれなりに店内は賑わっていたが、やはりこの場にも見知った顔はなく、カウンター前に立ってエスプレッソを飲んでいた一際目立つ男性が視界に飛び込んでくる。
制服姿の彼とは全く違う、暫く目を離せない。
「チーフ、お待たせしてすみません」
ちっとも、すみませんなんて思ってない。
本当なら、もっと遅れて来てやろうとさえ思っていた寿珠だったが、一応上司だし、これでも良心がとがめたのか、ぴったりの時間に来たつもり。
「来ないかと思ってたよ」
角田(かくた)にとって、一か八かの賭けではあったが、それでも、彼女がこうして来てくれたことに安堵しながら微笑んだ。
「私が、上司の誘いを断れると思いますか?」
「なんだか、俺がひどく悪いことをしているみたいだ」
エスプレッソを飲み干すとイタズラっぽく言う角田。
「十分、悪いことだと思いますけど」
―――上司が部下を個人的に誘うなんて、十分悪いことだと思うけどっ。
自分でも、よくもまぁポンポンと可愛くない言葉が出てくるものだと感心するほどだが、お互いにこんなやり取りは嫌いじゃない。
むしろ、楽しんでいるのも確かだった。
「じゃあ、行こうか」
「行こうって?」
「どこへ」と店を出ようとしたチーフに問い掛ける。
「君はまさか、夕飯をここでっていうつもりじゃないんだろう?俺はプロサッカー選手ほど金持ちじゃないが、美味い店を知ってるから」
「え?私、こんな格好なんですけど」
首から下の自分の姿を眺める。
―――やだっ、そういうことは初めにちゃんと言ってよ。
もう少し、まともな服装に着替えてきたのに…。
チーフと食事だからっておしゃれもどうかと思うけど、ジーンズ姿じゃ、雰囲気も何もあったもんじゃない。
とはいっても、相手がチーフなんだけど…。
「大丈夫だよ。君はジーンズ姿でも魅力的だ」
「はっ?!」
「そういう問題じゃっ」という寿珠の言葉など無視して、角田は彼女の背に手を添えて店を出ると、大通りのタクシー乗り場に止まっていた車のドアを開けて中に押し込んだ。
車内で眉間に皺を寄せながら、寿珠は思う。
――― チーフって、かなり強引よね。
それに何を考えているのか、さっぱりわからないわよ。
わかろうとも思わなかったが、お世辞でもあんな言葉と射抜くような瞳は反則だ。
寿珠は、わけもなく鼓動を早める心臓を抑えるのに必死だった。
◇
タクシーで10分ほどのところで降りたのは、可愛らしく女性が好みそうなトラットリアの前。
寿珠は今まで一度も足を延ばしたことのない店だったが、一体、チーフはどこで見つけたのだろう…。
いや、その前に誰と来たのか、そっちの方がめちゃめちゃ気になるところだろう。
しかし、それを口にすればチーフに気があるようで、しゃくだから聞かないけれど。
「どうした」
「えっ、何でも…」
さっきから、さり気なく背中に添えられる手が妙に様になっていて、納得できない。
チーフに付き合っている女性がいるのか、いないのか、そんなことはどうでもいいと思っていても、こんなふうにエスコートされることを想像するだけで、どうしてこんなにも心が掻き乱されるのだろう。
自分の姿と照らし合わせ、家庭的な雰囲気の店内にホッとしながら、典型的な恰幅のいいイタリア人のおばさんに案内されて事前に電話で予約を入れていたのだろう、壁際の用意された席に向かい合って座る。
せっかく落ち着いたと思ったのに、この環境は寿珠にとっては何だかとても居心地が悪い。
「ここは、観光客はほとんど来ない。手作りのニョッキやパスタが美味いんだ」
「あと、ワインも」と寿珠の気持ちなどお構いなしに角田は、メニューを開いてどれにしようか悩んでいる。
「ほら、どれにする?」
「え、えっとぉ…」
はっきり言って、メニューなんかどうでもいいとさえ思ってしまう。
だいたい、どうして自分はチーフとこんなふうに食事をしに来ているのか?
ぼんやりとそんなことを考えていると、彼の方をジッと見ていたらしい…。
「それとも食事より、俺がいいのかな?」
自らの顔の前で、両手を組んでニヤニヤ見つめる角田。
―――何、言ってるの!!
「はっ?!そんなわけ、ないじゃないですかっ。自惚れもいいところです」
「穴が開きそうなくらい見てるから、てっきりそうなのかと思った」
「残念」なんて、ちっとも残念じゃないクセにっ。
この人は、こういう人だったわけ?
信じられない!!
動揺を悟られないよう、適当に料理を選び、ソムリエの資格を持つチーフが選んだワインで乾杯する。
寿珠も同様にソムリエの資格を持っていたが、どうやらこの店は只者ではなさそうだ。
「チーフはどうやって、このお店を見つけたんですか?」
「知りたい?なんなら、誰と来たのかも説明するけど」
「結構です」
会話をそこで強制終了すると、寿珠はワインのグラスに口を付けた。
明日のフライトに備えたら、あまり飲み過ぎるわけにはいかないが、飲まずにはこの場を切り抜けられそうにない。
―――チーフは、こうやって女性を惑わすのだろうか?
頼んだ料理は悔しいけど、今までのどんなお金持ちの男性が連れて行ってくれる高級なレストランより美味しいと思った。
中でもデザートが絶品で、至福の時というのは正しくこのことをいうのだろう。
その相手がチーフでなかったら。
いや、きっと彼だからこそ、そう感じたのかもしれない。
「とっても、美味しかったです」
「それは良かった。食べている時の君は、素直で可愛かったよ」
「チーフ、酔ってます?」
「少し」
「やっぱり」と寿珠は落胆しながらも、チーフに対する印象が変わったのは確かだった。
自分のことが嫌いだと思っていたのは、間違いだったのだろうか…。
店を出ると、いつの間にか石畳が濡れていることに気付く。
そして…。
「私、チーフに―――」
言うや否や、抱きしめられて重なる唇。
「頼むから、あまり心配掛けないでくれよ」
切なそうなチーフの言葉が頭から離れなかった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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