あのキスは、何だったのよ…。
キスなんて初めてじゃないし、なのになぜか昨晩のことが寿珠(すず)の心を掻き乱す。
こんなことは今まで一度だってなかったのにずっと頭から離れなくて、この仕事は体調を万全にして臨まなければならないのに思いっきり寝不足だ。
それもこれも、あの男のせい!!
ベルト着用サインが消えた後、視線をそっと前方の座席に移動させると彼はワゴンから飲み物をサービスしながら、相変わらず爽やかな笑顔をお客様に振り撒いている。
全然、理想の相手じゃないし、だいいち何かあったとしても同じ職場なんてあり得ない。
それに自意識過剰と言われても、今の自分にはもっと地位のある男性と付き合ってもいいはず。
なのにどうして、キスひとつでこんなにも彼のことが気になってしまうのだろう…。
「今日は、素敵な男性は乗っていないようね」
一足先にキャビンに戻ると早速チェックを済ませた絵里子が、がっかりしたように寿珠に話し掛ける。
彼女はセレブで素敵な男性をあわよくばゲットしようという気持ちはあるものの、どうしたことか、自らモーションを掛けるようなことはしない。
意外にも、本気の恋愛を望む彼女には、寿珠のような遊びの付き合いはできないらしい。
言われてみれば、確かに東京行きの機内にはファーストクラスにもビジネスクラスにも、若くて好みの男性は乗っていないようだった。
「ニューヨーク線だったら、たくさん居そうだけど」
「でも、いいの。今日は、チーフをたっぷり堪能させてもらうから」
「えっ、チーフを?」
思わず聞き返してしまったが、いつもなら適当にあしらう事柄を変に受け取られても困る。
それでも、彼のことを話題に出されるとなぜか、冷静ではいられなかった。
「なんか、今日はいつになく素敵な気がする」
「そう?いつもと変わらないと思うけど、相変わらず澄ましてるし」
寿珠らしい言い方で、苦笑する絵里子に胸の内を悟られないようにそっけなく返すとお客様に出す食事を手早く温める。
近年、東京でも星が付く名店が生まれたが、中でも最年少で三ツ星を獲得したというイタリアンの若きシェフがプロデュースしたというメニューは、ファーストクラスとビジネスクラスでのみ提供され、搭乗2日までに予約しないと味わえない一品。
キャビンアテンダントがそれを口にすることはないが、是非本店で素敵な彼と一緒に…。
―――何で、そこにチーフよ。
もっと、素敵な人に決まってるじゃない。
どうやっても追い払えない彼の存在を打ち消すように寿珠は、ミールカートを取り出すと表情を仕事モードに切り替えた。
◇
いつものように体が動かないのは、寝不足が原因なのだろうか。
こんなことでは完璧なサービスができないし、そんな自分に苛立ちを覚えるのは、それだけ仕事に対して妥協を許さない寿珠の性格故のこと。
しかし、基礎的な健康管理すらできていないのでは話にならない。
「寝不足か?」
キャビンの影でこっそりあくびをしていたところで声を掛けられて、慌てて手で口を押さえたものの、眠気も吹っ飛ぶほど驚いた。
誰もいないと思ったのにどうして、この人はこう神出鬼没なのだろうか?
「いえ、そんなことは」
「俺が誘ったのが原因だったら、上司として責任重大だ」
先に否定してしまったが、こんな言葉を聞いてしまえば、『そうですよ。チーフのせいです』くらい言えたのにと思いつつも、大して遅い時間まで出掛けていたわけでもないのに、じゃあ何で…と逆に問い詰められても困る話だ。
とても、あのキスが理由などと、口が裂けても言えないのである。
「後悔してますか?」
「それはないな」
はっきり言い切る彼に、確信の意味を聞かせて欲しいと喉元まで出掛かったが、今はそんな話をしている場合ではない。
「私は後悔してます。いくら、チーフでも誘いになんか乗るんじゃなかった」
それだけ言うと、寿珠はお客様からの呼び出しに対応するために彼の前を通り過ぎるようにしてその場を去って行った。
+++
こんな思いをするんだったら、あんな誘いに乗るんじゃなかった。
セリエAのサッカー選手だった曽根 泰之と、一夜の楽しい時間を過ごした方がどんなに後腐れなかったか。
このままでは、下手をすると業務に支障が出るほど寿珠は彼の自分を見つめる視線に縛り付けられてしまうかもしれない。
―――あぁ〜せっかくの休みだというのに遊びに付き合ってくれる男もいないけど、友達すらいないなんて…。
キャビン仲間とは良く出掛けるが、今日に限ってみんな忙しいらしく、誰も相手になってくれなかった。
そして、ことごとく、寿珠のことをその場限りの恋人としてしか扱わない男達、だったらこっちもそうしてやろうじゃないのと付き合い方を変えてみたものの、寿珠だって本当はただ一人の王子様を待っていたなど、誰が信じるだろうか。
しかし、それは角田 遼介(かくた りょうすけ)ではない。
絶対に。
半ばふて腐れてベッドでゴロゴロしていると、リビングに置き去りにしていた携帯電話が鳴り出した。
こんな時間に掛けてくるのは、母親しかいない。
早く結婚しろだの、お見合い相手にいい人がいるのよだの、大きなお世話!!と寿珠は言いたかったが、思っていてもやっぱり母には言えなかった。
「はいはい。今、出ますから」
ひとり言のように呟きながら携帯を手に取って、危うく電話機を放り投げるところだった。
―――何で…チーフ?!
仕事の話じゃあるまいし、一体、何だろう。
色々な思いが頭の中を駆け巡ったが、恐る恐る、通話ボタンに指をあてた。
「はい」
『上田さん?良かった出ないかと思った。角田だけど。今、話しても大丈夫?』
「はぁ」と気のない返事にも関わらず、チーフは妙に嬉しそうだが、どこから掛けてきているのか声の向こうからベテラン女性歌手の歌声が聞こえてくる。
『これから、出て来ないか?マンションの近くまで来てるんだけど』
「マンションって…えぇっ?!うっ、うちのですかっ?」
『そう、多分』なんてしれっと言っているが、どうやって寿珠の自宅マンションの住所を知ったのだろう。
電話番号は止むを得ないにしても、個人情報についてうるさく言われているこのご時世、厳重に管理されていて、いくらチーフでも住所はそう簡単に見ることはできないはず。
「もしかして、ストーカーですか?」
『何で、俺がストーカーなんだよ』
「だって。どうして、家の場所がわかったんですか?いくらチーフだって」
『あのなぁ、俺は君の住んでいるマンションの近くまでとしか言ってないぞ』
「え…」
言われて見れば、多分って…。
『ったく、俺をストーカー呼ばわりしやがって』とブツブツ言っているチーフだが、近くでも何でも、このマンションの場所が特定できるような話をした覚えが寿珠にはないのだ。
『その話は後でゆっくりすることにして、出て来られないか?それとも、家じゃないのか』
「家には、居ますけど…」
『予定でも、あるとか?』
「予定なんて、ないですけど…」
『だったら、出て来いって。どうせ、暇なんだろ?ドライブ行こう。天気もいいしさ』
―――暇は余計ですっ!!
だけど、チーフはどうして、私を誘いになんて来たんだろう。
嬉しく思う反面、彼の気持ちがわからない。
後悔していると言った日から、なんとなく気まずかったし…。
『それとも、もう俺の誘いには乗らないか』
どことなく寂しげなトーンにわけもなく胸が痛む。
でも…このまま、応じたら、きっともう引き返せなくなってしまう。
寿珠には、それがとても怖かった。
『今から、30分だけ待ってる。もし、出て来てくれるなら、携帯に電話してくれないか』
どう答えていいのか少しの間だけ迷っていたが、「わかりました」と言って通話を切ると、そっと窓辺から通りを眺め、寿珠は大きく溜め息を吐く。
空は青く晴れ渡っていた。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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