一人寂しくクリスマスとお正月を越して日本に帰って来た白桐。
また、いつもと変わらない朝を迎えられたことにほのかな幸せを感じでいた。
「おはよう」
「ニューヨークもめちゃめちゃ寒かったけど、東京だって負けず劣らず寒いよな」とコートの襟元を片手で押さえながら話す白桐の吐く息は、今朝はより一層白く見えたような気がした。
「あっ、課長。おはようございます。出張、お疲れ様でした」
「お土産買ってきたから、後でみんなに配っておいてくれないかな。深森(みもり)のやつ、わざわざそれだけのためにメールを送ってきたし」
『深森さんなら、やりそう』とららは思ったが、よく見れば課長の手には免税店のロゴが大きくプリントされた大きなビニール製の手提げが3つもあった。
「ありがとうございます」
「そうそう、こっちは女性だけに買ってきたんで、こっそり配っておいてくれるかな」
「くれぐれも、深森には見つからないようにね」と課長は免税店の袋の中を見せてくれたのだが、それはファッション誌でしか見たことがない、日本未発売で憧れの化粧品メーカーの口紅(ルージュ)の数々。
―――おぉっ、これは取り合いになること間違いなしだわ!!
「いいんですか?いただいても」
「あぁ、君には面倒なことも頼んでしまったし。そのおかげで無事に契約も成立したんだから、これくらいお安い御用だよ」
「雑誌で見て憧れていたので、嬉しいです」と微笑む彼女を見ているだけで、さっきまで感じていた寒さもどこかへ吹っ飛んでしまった。
メールのやり取りですっかり誤解も解けた今、本当なら個人的に食事にでも誘いたいところだが、そういうわけにもいかず、若い女性に人気だというお土産を聞き出して買ってきたのだ。
それも、彼女の唇に似合いそうな色ばかり…。
…おっと、僕は朝っぱらから何を考えているんだ!!
白桐の下心など全く気付いていないららだったが、二人が出社するのをというより課長の出社を待ってましたとばかりに深森がやって来た。
「課長、おはようございます」
「おはよう。なんだ深森、今朝は早いな。土産ならちゃんと買ってきたぞ、ほら」
例の免税店のロゴが大きくプリントされた大きなビニール製の手提げを深森の前に差し出す白桐。
「ありがとうございます。って、そうじゃなくって。課長、うちは大丈夫なんですか?」
せっかく土産を買ってきたというのに喜ぶどころか、真面目な顔をして返してくる深森。
大丈夫かと聞かれても、一体何のことやら。
「大丈夫って、何が?」
「明善(めいぜん)書店が、浪速(なにわ)ブックセンターに吸収された件ですよ」
「え?」
明善があの、関西大手の浪速ブックセンターに吸収?!
さすがの白桐もそんな情報はこれっっぽっちも聞いていない、“寝耳に水”とはこのことを言うのだろうか。
「白桐出版を背負って立つ男が、知らなかったんですか?」
「あっ、いや…すまん」
深森の言う通りだから返す言葉もないが、明善書店というのは洋書を専門に扱う老舗の書店で、白桐出版は創業当時からの大得意先でもあった。
大手と違い信頼関係で成り立つ部分も多かったし、それが浪速ブックセンターとなれば今まで築き上げてきたものは一切通用しないだろう。
どころか、下手をすれば、白桐出版とは手を切ると言ってくるかもしれない。
「うちの本は、ほとんどが明善ですからね。もし、浪速がそれを―――」
「心配するな。まだ、詳細はわからないんだから」
「みんなも、いつも通り業務を続けてくれ」と言うことしか今の白桐にはできなかったが、もしも吸収によって販売ルートを絶たれてしまえば、白桐出版の未来はない。
白桐は席に着くこともなく、そのまま社長室へと足を向けた。
◇
「うちの会社、どうなっちゃうのかしら…」
「もしかして、このまま本が売れなくなっちゃって経営破たんとか…。世界は100年に一度の経済危機とか言われてるし、そうよね?うちみたいなよくわかんない出版社が、今まで生き残ってきた方が不思議だったのよ」と腕を組みながら、真剣な表情で話すこぶたちゃん。
―――わけわかんない出版社って…。
自分の勤める会社をそんなふうに言うところは彼女らしいが、実のところららもニュースなどを見て少し心配になっていた。
それだけ、景気は悪化しているということで、白桐出版もその例外ではないということ。
どんなにいい本を作っても、自社で販売ルートを持っていない白桐出版にとっては大打撃には間違いない。
課長なら大丈夫!!そう信じてはいるけれど…。
あれから、社長室へ行ったきり戻って来ない彼のデスクをじっと見つめるらら、心配はつのるばかりだった。
白桐が席に戻って来たのは午後をだいぶ過ぎた頃で、その険しい表情にさすがの深森も声を掛けることはできそうもなく…。
どんなことでも聞きたいのは山山、周りにいたみんなも同じ気持ちだったけれど、今は静かに待つしかないのかもしれない。
「課長、よろしければコーヒーを入れましょうか?」
「あぁ、いいのかい?」
「えぇ、ちょうど私も入れるところでしたので、席にお持ちいたします」
給湯室へコーヒーを入れに行こうと席を立ったらら、彼女には経営の細かいことはよくわからないが、彼のものすごく疲れた表情をなんとか和らげてあげたかったから。
「僕も一緒に行くよ」
今の白桐には、彼女の心遣いが何よりありがたい。
明善側からの申し入れによると、浪速ブックセンターに吸収されても白桐との関係が急に変わることはないとのこと。
報道発表がなされても、社としても緊急事態とまでは至っていないとの判断から一部の上層部内に留めておいたためだったが、手放しには喜んでもいられなかった。
これから先、十年後、二十年後も社員が安心して勤められる会社にしていくためにも、自分が何かをしなければ。
白桐が敢えて険しい表情を見せたのは、そこにあったのだ。
「私、恥ずかしいんですけど、うちで出している本とか全然読んでいなくって」
ららは何を話していいものか、本当は会社は大丈夫なのか?すぐにでも問いたかったけれど、個人的に課長から聞き出すのは適当ではないと思ったし、かといって他に話題も見つからない。
「明善書店にも、ほとんど行ったことがないんです」
棚から取り出したコーヒーのドリップパックを開けると2つのカップにセットする。
明善書店がどこにでもあるわけではなく、また白桐出版の本も一般向けでないところから、読者層も限られていた部分が大きかったし、これで問題もなかった。
社員には新書の情報や社販も行ってはいたものの、それはららだけでなく恐らく他の社員にも言えることで、身近な物ではなかったのだから仕方がない。
「いや、君だけじゃないよ。昔から、このやり方できていたからね」
給湯室にコーヒーのいい香りが立ち込める。
白桐出版が長年変わらないスタイルを通してきたのは、時代に流されないこだわりもあった。
だが、若い世代に受け継いでいくには限界もあるのは確か。
「たくさん売れるという物でもないし、でも君達のような活字から離れがちな若い世代にもうちの本を読んでもらえればとは思ってるんだ」
砂糖とミルクと共に「どうぞ」と、ららに渡されたカップを受け取る白桐。
さっき、社長である父親と話をした時に思ったのは、若い社員で何でもいいから新しいことができないかということ。
待っているだけじゃダメなのだ。
「そうですね。携帯とかパソコン。ネットの時代ですもんね」
…携帯?ネット?
そうか、本を売るだけじゃなく、携帯やパソコンを通じてネットで直に読めてしまえばいいわけか。
自分自身も、あの大きな本を持ち歩くのは面倒な時がある。
調べてみる価値はありそうだな。
「観月さん、ありがとう」
「ごちそうさま」と急に出て行ってしまった課長。
その瞳は、さっきとは打って変わって希望と輝きに満ちていた。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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