あれから、毎朝同じ電車の同じ車両に乗っているけど、あの人には会わなかった。
―――会ったら、お礼を言おうと思っていたのに。
実際、彼を目の前にしたらそんな大胆なことができるという保障はないが、それでもこのままというわけにはいかない。
「廼依留(のえる)、どうしたの?ここのところ、五反田に着くとキョロキョロして。誰か、知っている人でも探しているの?」
「へっ…そっ、そんな人…いないって…」
露骨にあの人を探していたわけじゃないけれど、廼依留と違って茉莉亜はそういうところが鋭いというかなんというか。
「おっ、いつにない反応ねぇ。廼依留もとうとう恋に目覚めたの?いやぁ、お姉ちゃんは嬉しいわぁ」
「くぅ~」と泣き真似をしてみせる姉は大げさだ…。
というか、これは恋とかそういうものではなく、単にあの時のお礼を言いたいだけなのだ。
あの場で、誰一人として手を貸してくれようとした人はいなかったのにあの人だけは違っていて…。
それにあの人は、お兄ちゃんと同い年くらいの大人の男の人だもん。
同年代の先生だって見てきたけど、恋したことは一度もない。
「お姉ちゃん、考え過ぎ」
「そお?廼依留だってあたしと同じ顔してるんだから、そこんとこちゃんと意識してる?」
「意識って?」
…あぁ。
きょとんとした表情で見つめられたら女のあたしだって…こういうところが可愛いと思うんだけど、あまりに無防備過ぎる。
本当なら一人で学校に来させるのも体のこどだけじゃない、どこでよからぬ輩達に狙われるか。
しかし、本人はそんな人はいないと言っているが、果たして本当なのだろうか?
一卵性だからというわけでもないけど、本能的に彼女のことはわかってしまう。
もしかしたら、誰か好きな人が出来たんじゃないかしら。
「狙ってる男が多いってこと」
「誰を狙ってるの?」
「もう、いい」
「お姉ちゃんったらぁ。教えてよぉ」と真顔で言われても、茉莉亜だって困ってしまう。
だけど、廼依留がそんなふうに想う男性とは一体…。
+++
「え~雪森先生、彼女さんいるんですかぁ?」
お願いだから、この女性(ひと)達を何とかしてくれ…。
自分の歓迎会という名目だから、この場から逃げ出すわけにもいかないが、白衣の天使もあったもんじゃない。
なんだかんだいって、若い医者なら誰でもいい、玉の輿にのろうとしているだけじゃないか。
「洗礼ってやつだ。ありがた~く、受けといた方が後々、身のためだな」
「そういうもんか?」
「そういうもんだろ」とそっけなく返す紫苑と一緒に千里は、焼酎のロックを飲み交わす。
彼女が欲しくないと言ったら嘘になるが、今はやっと医師としての道を歩み始めたばかりだというのに愛だの恋だのに現を抜かしている場合じゃないから。
…でも、あの子大丈夫だったかな。
貧血気味なのか、顔色もあまりいいとは言えなかったし、転んだ膝小僧の怪我も痛々しくて。
忘れられないのは医師としての見解からであって、決して可愛かったとかロリコンだとかじゃなく。
自分で墓穴を掘りそうだから、これ以上は言わないことにする。
「そう言えば、霧島先生って兄弟とかいるのか?」
「俺?どう思う?」
う~ん…。
一人っ子って感じでもないし、お兄さんとかお姉さんって感じでもないな。
となると、妹か弟か。
「妹か弟がいそう」
「おっ、鋭いな。妹がいるんだけどさ、聞いて驚くなよ?双子の女子高生だぞ。もう、めちゃめちゃ可愛いんだ。どうだ!!羨ましいだろっ」
既に酔っ払っているのか、はたまた可愛い妹の話になったからだろうか、妙に鼻息が荒くなった。
周りを取り囲む看護師だって、そこそこ可愛い子だっているっていうのに妹の話でここまで鼻の下を延ばす兄がいるだろうか。
それにしても、女子高生といえば、あの時の彼女と同じ。
…かぁ~っ、やっぱり羨ましいぞ。
双子だって言ってたし。
「まぁ。色々、兄としては心配なところもあってさ」
「年頃の女の子だからか?」
「それもあるけど」
紫苑にとってみれば、妹の廼依留のことが何よりも気掛かりなのだ。
今でこそ、かなり体調も回復しているが、いつどうなるかわからない。
医師になったところで、何一つ解決していない問題に腹立たしささえ感じる時もあるくらいだというのに…。
「俺が医者として、もっともっと精進しなきゃダメなんだ」
千里には紫苑が言わんとしていることが、なんとなくわからないでもなかった。
きっと何か、見えない大きなものを抱えているに違いない。
◇
まさか、3次会まで飲みに行くとは思わなかったが、命を預かる仕事だけにいつだって気を張って、こうして何事もなく過ごせたことが、やっぱり幸せなのだと感じずにはいられない。
「霧島先生、家はこの辺ですか」
「えっとーそこを右に曲がって、いや左?真っ直ぐ行っちゃって」
全然、わかってないみたいだ。
ここまで、羽目を外すこともそうそうあることじゃないと思うし、明日は休みだから大目にみてあげよう。
しかし、肝心の家に辿り着かなければ何にもならないのである。
「しっかり、して下さいよ。ほら、ちゃんと前を見て」
「そこだ、そこっ」
急に『そこだっ』と言われてタクシーを止めたが、門にあった表札には間違いなく“霧島”の文字が。
しかし、さすが医者の息子の家だけはある。
都心の閑静な高級住宅街にある一軒家は、誰が見てもお金持ち。
「大丈夫かい?」
「だいじょーぶだってぇ」
言ってる側から、大丈夫じゃないっての…。
タクシーには無理を言って待ってもらい、時間も時間だし、玄関の扉をこっそり開けたが、家族はとっくに寝てしまっているのだろう。
灯りも消されて真っ暗だ。
「霧島先生の部屋は、どこなんだ?」
「俺の部屋は、2階の奥のぉ」
2階の奥ね、と小さく呟きながら肩を担いで階段をゆっくりと上がって行く。
いくつかのドアを通り過ぎて、多分ここだろうと思われるドアを見つけたが、可愛いという双子の妹の部屋はどこなんだろうか…。
千里は、いらぬ想像に頭を左右に何度か振ってみせた。
「お兄ちゃん?」
そんな時、ふとか細い声に振り向くと、通り過ぎた部屋のドアから恐る恐る覗く少女。
「あっ、ごめんね。起しちゃったかな。霧島先生の部屋は、ここでいいのかい?」
てっきり、兄一人で帰宅したものとばかり思っていた廼依留は知らない男の人の声に思わず身構えたが…。
「はっ、あの時の…」
「え?あっ、君は」
パタンと閉まるドアの音。
会ったら、お礼を言うはずだったのに…。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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