be yourself
8


それでも笠原は今まで通り藍に電話を掛けてきては飲みに誘う、それが藍には到底納得できなかった。
───どうして、彼女がいるのに私を誘うわけ?
だからそれ以来、藍は適当に用事を作っては笠原の誘いを断っていたのだが、悪いことは重なるもので…。

「神谷さん?」

聞き覚えのある声、電話以外で久し振りに呼ばれた自分の名前に嬉しさがこみ上げるのと同時に藍はその場で固まった。
誘いを断った直後に藍はデパートで買物を済ませて家に帰る途中、残業を終えた会社帰りの笠原に駅のホームでばったり会ってしまうとは…。
よりによって、どうしてこんな時に。
偶然を呪いたい気持ちは山々だったが、今はそれよりこの場をどう乗り切るかが先決だ。
気まずさのあまり、すぐには顔を上げることができなかったが、視線は落としたままで恐る恐る彼の方へ向き直る。

「…か、笠原」

変に声が裏返る。

「神谷さん、今晩は友達と飲みに行くんじゃなかったのか?」

時計の針は20時になろうとしているところ、デパートの紙袋をいくつか下げた今の藍を誰がどう見ても飲みに行くようには見えない。
それとも、約束が変更になったのだろうか?

「うっ、うん。そのつもりだったんだけど、急に相手の都合が悪くなっちゃって」

ここで嘘発見器を持ち出されたら、間違いなく針は振り切っていることだろう。
まともに笠原の目を見て話すことができない。
───だって、今の笠原すごく怖い顔してるんだもの。

「だったら、どうしてそれを言ってくれなかったの?」
「それは…」

─── そんなこと言われても困るわよ。
だいたいね、私が誘いを断ったくらいでそんなに怒ることないじゃない。
開き直り、逆ギレと言われたって構わない。

「最近は誘っても適当にはぐらかされて、いつもの神谷さんと違うなって思ってたけど。俺のことが迷惑なら、はっきり言って欲しかった。少なくとも、こんなふうに嘘をつかれるよりは」
「えっ?」

───ちょっと待ってよ、笠原は何か勘違いしてない?

「何それ、私が悪いの?笠原こそ、おかしいわよ。綺麗な彼女がいるのに私を誘うなんて。いくら、私だってそこまで鈍くないもの」

今まで怖い顔をしていた笠原の顔が、一瞬で戸惑いの顔に変わる。

「どういうこと?」

笠原には、藍の言っていることの方が理解できない。
お互い何か食い違っている、そう直感した笠原は藍の手を取るとたった今ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。

「ちょっと、どこに行くの?」

藍が聞いても笠原は押し黙ったままだった。
こんな笠原は今まで見たことがなかっただけに藍はこれ以上は何も言えず、ただ黙って笠原に着いて行くしかなかった。
着いた先はとあるアパートの前、多分これは笠原の住んでいるアパートなんだろう。
初めて来たけれど結構、新しいところだった。
笠原に引っ張られるようにして二階に上がると彼がポケットから鍵を取り出してドアを開けた。

「散らかってるけど、入って」

そこで初めて言葉を発した笠原の言う通りに部屋に入ると汚いと言っていたが、とても小奇麗に整頓されていた。
3畳ほどのキッチンの横にフローリングの部屋が一つ、その隣にはもう一つ部屋があるようだ。
フローリングの部屋には恐らく冬はコタツにしているであろうテーブルがあり、脇にはテレビやオーディオの納まったラックがある。

「今、コーヒー入れるから、その辺に座ってて」

笠原の言われるままに藍はテーブルの横に腰を下ろした。
見てはいけないと思いつつも彼の素顔を覗いてみたくて、こちらを見ていないのを確認してキョロキョロと辺りを見回してみた。
男の一人暮らしなんてこんなものだと思うが、なんとも落ち着かない。
暫くしてカップを両手に持った笠原が藍の前にその一つを置くと斜向かいに胡坐で座った。

「ごめん、いきなりこんなところに連れて来て。でも、神谷さんとゆっくり話ができるのはここしかないと思ったから。それで、さっきの綺麗な彼女ってどういうこと?俺、言ったよね。彼女はいないって」
「だって、麗奈ちゃんが言ってたから。笠原が綺麗な女の子と歩いてるのを部の人が見たって。笠原、彼女いないって言ってたけど、できたのかなって…。なのに何で私のこと誘うのかわからないし、彼女いるのにのこのこ誘いに乗るのはおかしいでしょ?」
「それって…だから、神谷さんは俺が誘っても用事があるって断ったの?」

藍はコーヒーの湯気が立つカップを見つめながら頷いた。

「神谷さんは俺が綺麗な女の子と一緒に歩いてたって噂、本気で信じてるの?」
「笠原、最近かっこよくなったって。絶対、女だって」

そっと藍は笠原の方を覗き見るとさっきの怖い顔はもうそこにはなく、いつものように優しい笑顔で見つめる彼の顔があった。
というか、一生懸命笑いを堪えているのだろう、口がピクピクと震えている。

「ねぇ、神谷さん。俺が一緒に歩いていたっていう綺麗な女の子は、神谷さんだと思うんだけど」
「え?」
「っていうか、間違いなく神谷さんだよ。だって、俺にはそんな彼女はいないし、神谷さんより綺麗な女の子と一緒に歩く機会もないからね」
「そうなの?」
「そうだよ。これで、誤解は解けた?」

笠原は、『神谷さんらしいね』って笑うけれど、綺麗な子って言われてそれが自分だと思えるほど自意識過剰な人が果たしているだろうか?
───でも、良かったぁ。笠原にはやっぱり、彼女いなかったんだ。
藍の肺は呼吸することを始めて知ったかのように大きく膨らみ、ほっとしたと同時に安堵の気持ちでいっぱいだった。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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