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何事もなく時間が過ぎていたある日の午後、一通のメールが楓の元へ届いた。
件名はない。
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件名:
江上さん、この前の金曜日にピアスを片方落としただろう?
返したいから、19時にM駅で待ってる。
北沢
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―――えっ?北沢…。
北沢からのメールにも驚いたが、もう見つからないと半ば諦めていたピアスをまさかあの時落として、それを彼が持っているなんて…。
あのピアスはこの前の冬のボーナスで思い切って買ったものだったから、落としたと気付いた時にはかなりショックだった。
しかし…。
あの時のことは成り行きというか単なる事故に過ぎないが、それでも新吾と顔を合わせるのは跋が悪い。
だったらピアスくらい誰かに渡してくれとでも頼めばいいのに…なのになぜ…。
会いたくない反面、ピアスも返して欲しい、そしてどうしてあんなことになったのか…新吾の口から聞いてみたかった。
◇
新吾との約束は19時だったが、楓は定時で会社を出るとどこに行くでもなく、街をブラブラと歩いていた。
いつものようにそっけない態度をとればいい、そうは思ってみてもいざ新吾を目の前にしてそれができるかという保証はない。
楓は、足取り重く待ち合わせの駅へと向かった。
時刻は19時にもうすぐなろうとしているところ、ぱっと見た感じでは新吾の姿はまだないようだ。
―――自分から言っておいて、何よ。
心の中で毒づいてみても、気分は晴れそうにない。
それより早くここへ来て欲しかった。
「江上さん。ごめん、遅くなって」
突然背後から耳元で低い声と共に肩に手を掛けられて、楓の心臓は突然鼓動を早めた。
―――もう、何なのよ。
「早く行こう。俺、昼も食べ損なっちゃってお腹空きまくりなんだよね」
新吾はひとり勝手に言うと、今度は楓の腰に手を回して抱き寄せるようにして歩き出した。
「ちょっと北沢、離してよ!私は、ピアスを返してもらいに来ただけなのに」
楓はそのつもりでも、新吾はそれだけで済ませるつもりはなかった。
このチャンスを逃す手はないのだから。
新吾は楓の言うことなど耳も傾けず、スタスタと歩き出してしまった。
そして着いたのは一軒の洒落たダイニングバーの前。
行きつけなのか、新吾は躊躇うことなくドアを開け、腰を抱かれたままの楓と共に店の中に入る。
薄暗い店内は、既に客で一杯の様子。
駅から近い場所なのにこんなところがあったとは楓も知らなかったので、自分の置かれている立場などすっかり忘れつい興味心が働いて店内を見回す。
すぐに二人に気付いた店員に案内されて、奥のテーブル席に斜向かいに座った。
「江上さんは、ここに来るのは初めて?」
「え?うっ、うん」
あまりに普通に話し掛けられて、こっちの方が面食らってしまう。
「ここさ、お酒の種類も多いけど、結構料理も美味いんだよね」
お酒という言葉に敏感に反応してしまい、あの時のことが頭をよぎる。
新吾が何を考えているのか…さっぱり理解できない。
「江上さんは、何にする?」
いつもの爽やかな顔で見つめられて、思わず目を逸らした。
あんなことになってしまったと言うのに…どうして、この男は平然としていられるのだろうか?
「今日はあんなに飲ますつもりないから…でも、少しだけ付き合ってくれる?」
こんなふうに言われて断ることもできず、楓はただ小さく頷いた。
新吾が注文を聞きに来た店員にビールと楓には軽めのカクテル、それと適当な料理を頼んだ。
そして店員が去ると新吾は上着の胸ポケットに手を入れて、小さなビニール袋を取り出した。
「はい、これ」
楓の目の前に差し出したそれは、あの日なくしたダイヤのピアスだった。
「あっ、ありがとう」
これを受け取ってしまえばもう用はないが、だからといって楓はこの場を立ち去ることもできないでいた。
気まずい空気が二人の間を流れる―――。
それを先に破ったのは、新吾の方だった。
「金曜日はごめん。俺、江上さんが酔ってるのわかって…あんなことした。でもあれは遊びとか一時の気の迷いとかそういうんじゃないんだ」
「えっ?」
「俺、江上さんが好きだから」
いきなりの爆弾発言に開いた口が塞がらず、目も見開いたままで新吾を見つめていると店員が飲み物を持ってやって来た。
楓はその様子を見ながら、今新吾が言った言葉を思い出していた。
『俺、江上さんが好きだから…』
―――嘘、そんなわけない…。
北沢が私を好き?
「だから朝、目が覚めた時、隣に江上さんがいなくて初めは夢かと思ったんだよ。でもまだ暖かくて、そしてこのピアスが傍に落ちていて…そこには確かに江上さんがいたんだって思った」
新吾をみれば、それが冗談や演技でないことがわかる。
それでも楓には、新吾の言葉が信じられなかった。
新吾に愛情を持たれていたこと自体が信じられないことで、何と言っていいのかわからなかった。
日頃の楓の振る舞いから嫌いにこそなられても、好きになる理由が思い当たらなかったからだ。
「じょ、冗談やめてよ。何でそんなこと言うの?」
「冗談なんかじゃない、俺は本気だよ。でも本当は自分の気持ちを言うつもりはなかったんだ。だからあの時、あんなことをした。どうしても、江上さんが欲しかったから」
新吾はそこまで言うと「取り敢えず、乾杯しよう」とビールのグラスを持って楓にもそうするように目で促し、言う通りに目の前に置いてあるカクテルグラスを持った。
カチンとグラスが合わさる音が響いたが、楓はピンク色の液体をじっと見つめたままだった。
「江上さんが俺のこと嫌いなのはわかってる。でもそれって、どうにもならないことなのかな…江上さんが俺のことを好きになってくれる確率は、ゼロなのか?」
そう切なそうに話す新吾を見て、楓は複雑な心境だった。
「どうして私なの?北沢なら、私なんかより他にいくらでも可愛い子がいるでしょ?それに…」
楓は100歩譲っても可愛いなどとは言いがたい、そんな自分を好きだと言う新吾の気持ちがさっぱり理解できなかった。
それに…今まであれだけあからさまに避けてきたというのに…
「江上さん、それ本気で言ってる?まぁ、そう言うところが江上さんらしいんだけどさ」
まるで楓の返事を予測していたように新吾はフッと微笑んだ。
しかし当の楓には、その意味が益々わからない。
「俺にとっては、江上さん以上に可愛い子なんて存在しないよ」
これは新吾の本心であったが、楓には恥ずかしい以外の何者でもない。
―――どうしてこういうこと、さらっと口に出すわけ?
楓は、お酒を飲んだのとは違う意味で頬を染めた。
「そういうこと、恥ずかしいから面と向かって言わないでよ」
「本当のことだから」
「でも…」
「ごめん。俺、困らせてるね」
新吾は、ビールのグラスを口にすると小さく溜め息を吐いた。
「北沢が謝ることじゃない。あたしの方こそ―――」
新吾は楓の言おうとしていることがわかっていたからこそ、それを遮るように話し始めた。
「そんなこと気にすることないよ。俺はかえって、江上さんのそんな姿がすごく新鮮だったんだから」
「え?」
「俺さ、何かわかんないけど女の子達にチヤホヤされて有頂天になってたんだと思う。だから女の子なんて誰でも同じだって思ってた。でも、江上さんは違ったんだ。あんなに避けられたのは、初めてだったな」
「ごめんね」
また、謝罪の言葉を述べる楓に新吾は慌てて否定した。
「違うんだ。江上さんだけは俺のこと、ちゃんと見てくれてるんだって思った。さすがに最初は凹んだけどさ、でも少しして江上さんはただ俺のことを嫌いなんじゃないってわかったから。江上さんは、俺のいいところはきちんと誉めてくれてただろう?」
楓は、新吾の全てを否定していたわけではない。
新吾の相手に対して自分を押し殺してまでもいい人を演じる部分は嫌いだったが、最後まで諦めないところとか人の意見をきちんと聞くところは尊敬できると思っていたのだから。
「こんなふうに自分のことをはっきり言ってくれる子は俺の周りにはいなかったから、俺自身すごくいい勉強になった。江上さんに出会えて良かったって」
「北沢…」
楓は新吾の言葉にジンと目頭が熱くなった。
「これは、あくまでも俺の気持ちだから。江上さんが、無理に俺を受け入れる必要はないんだ。ただ…」
「ただ?」
「俺の身勝手な想いで、あんなことになって―――」
今度は、楓が新吾の言葉を遮るように言う。
「確かに酔ったところを襲うなんて、男性として失格ね。でも…」
「でも?」
「北沢を好きになる確率は、ゼロなんかじゃない。だって、今の北沢は好きだもん」
「…江上さん」
「あたしね。北沢のこと、もっともっと知りたい。だから、改めて彼女にしてくれる?」
にっこりと微笑む楓に新吾は、釘付けになった。
自分には一生向けられないと思っていた笑顔が、今そこにある…。
「北沢?」
楓のことをじっと見つめたまま動かない新吾に、再び声を掛ける。
―――北沢、どうしちゃったの?固まっちゃって…。
「あぁ、聞き間違いじゃないんだな」
新吾はかみ締めるように言うと、楓の手をぎゅっと握り締めた。
大きくて、暖かい手…。
そんな彼の想いに応えるように、楓も新吾の手を握り返す。
「ねぇ」
「うん?」
「楓って、呼んで?」
「えっ」
また、固まってしまった新吾。
「何よ、そんなに驚かなくてもいいでしょ?あの時は、そう呼んでくれたのに」
「覚えてたのか?」
黙って頷く楓。
酔っていたから覚えていないかと思ったが、ちゃんと覚えている。
自分が『新吾』と呼んだことも、『好き』と言ったことも…。
「楓、好きだよ」
「あたしも、新吾が好き」
これからが、本当の意味での二人のスタートライン。
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