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比奈は、時計を何度も見つめながらある人を待っていた。
―――ちょっと、早過ぎちゃったかしら?
仕事を終えてすぐにここへ来たのだが、待ち合わせの時間にはまだ早かったよう。
「比奈ちゃん、ごめんね。遅くなって」
走って来た彼の息は、少し荒い。
そう、比奈がドキドキしながら待っていた相手は、春樹だった.
比奈の方から誘いの電話を掛けたら即OKしてくれたのだが、今夜でなくてもよかったのに春樹は早い方がいいからと…そういうところが彼らしいのかもしれない。
「いえ、まだ待ち合わせ時間には早いですよ?」
春樹は初めて会った時もそうだったが、まるで自分が悪かったかのようにこうやって謝るところが彼の人柄を感じさせるよう。
「俺さ、お腹空いちゃって。早く行こう」
あの時は春姫が同じことを言っていたが、やはりこんなところが兄妹だなと思う。
「比奈ちゃん、どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
クスクスと笑っている比奈に首を傾げる春樹だったが、そんな彼女がやっぱり可愛くて無意識に手を取って歩き出していた.
今夜は比奈の方から誘ったので、春姫とよく行くお気に入りのお店を選んだ。
特に何料理という区別はなく、野菜を中心にヘルシーなメニューとデザートが美味しいと女性客に大人気だった。
「比奈ちゃんと春姫って、こういう店に来てるんだ」
「ええ、よく来ますよ。でも、男の人にはどうなんでしょう?」
「俺は、どこでも構わないんだ。比奈ちゃんが、連れて来てくれたところならね」
春樹はさらっとこういうことを口にするが、それは慣れているからなのだろうか?
それとも…。
「比奈ちゃんから誘ってもらえるって思ってなかったから、びっくりしたよ」
「すみません。お忙しかったのでは…」
「そんなことないよ。もう、比奈ちゃんと会えると思ったら嬉しくて仕事なんて手につかないし、何ニヤケてるんだって同僚には冷やかされるしさ」
「まいったよ」と話す春樹は、本当に嬉しそう。
実際は誘われたことの嬉しさ反面、もしかして比奈と会うのはこれが最後かもしれないという不安もあったのだが、今だけはそんなことを考えたくなかった。
「実は私も…定時前になったらソワソワしちゃって、春姫に笑われちゃいました」
「えっ、ほんと?」
「はい」
自分だけではない、比奈も同じように思っていてくれたことがとても嬉しかった。
―――期待しても、いいのだろうか?
比奈は思ったよりもお酒を飲めるタイプなので、マイブームなのだという芋焼酎で乾杯する。
こんなギャップも春樹には、ツボだった。
今まで出会ったことがない純粋で、飾らない女性。
会社での話や春姫とのこと、学生時代の話で盛り上がり、時間が経つのも忘れてしまうくらいだった。
こんなに楽しい時を過ごすのは、初めてなのではないかと思うくらい。
「私が誘ったんですから、今日は私が払います」
「こういうのは、男の方が払うものでしょ?」
店を出る時にレジの前で、どっちが支払うかでもめている二人。
当たり前のように先に店を出て行ってしまう子としか食事に来たことがない春樹にとっては、ものすごく新鮮だった。
最後までお互い引かなくて、結局割り勘ということで落ち着いた。
「今日は、誘ってくれてありがとう。とても楽しかったよ」
「私も楽しかったです」
なんだか別れるのが惜しくて、いつまでも駅に辿り着きそうにない。
春樹と比奈は、ただブラブラとその辺を歩いていた。
「あの…」
「うん?…比奈ちゃん?」
急に立ち止まって俯いてしまった比奈を、心配そうに覗き込む春樹。
―――酔ったのか?
「春樹さん」
「どうしたの?気分悪い?」
「いえ」
顔色は少し赤みを帯びているが、特に気分が悪いとかそういうのだはなさそうだ。
じゃあ一体、どうしたというのだろう…。
「あの、また会っていただけますか?」
「え?」
本当なら一番嬉しくて、一番聞きたい言葉だったはずなのに春樹は放心状態のままその場に固まってしまった。
「春樹さん?」
「あっ、ごめん」
比奈は勇気を振り絞って言った言葉だったが、春樹の反応に迷惑だったのではないかと言ってしまったことを後悔する。
「迷惑ですか?」
「そんなこと、あるはずないよ。どうしよう…」
急にその場にしゃがみ込むと、春樹は両手で顔を覆ってしまった。
春樹こそ、どうしたというのだろう?
「春樹さん、どうしたんですか?」
「ヤバイかも。俺、嬉し過ぎてどうしていいかわからない。大声で叫びたい気分」
「えっ…」
―――そんな、大げさな…。
と比奈は思ったが、迷惑ではなかったということ?
「もしかして断られるかもしれないって、不安だったんだ」
比奈も春樹と同じようにその場にしゃがみ込む。
「春姫に言われたんです。春樹さんの気持ちを真剣に受け止めて欲しいって」
「春姫に?」
まさか、妹の春姫がそんなことを言っていたとは春樹も思わなかった。
「はい。だから、私の気持ちも受け止めてもらえますか?」
「比奈ちゃん…」
黙って頷く春樹に、比奈はちょっとだけ姿勢を正すと両手をしゃがんだ膝の上に乗せて頭を下げる。
「不束者ですけど、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね。でも、これって結婚の挨拶みたいだよ」
「へ?」
言われてみれば、そうだった…。
どちらからともなく吹き出して、いつまでも笑いが止まらない。
傍から見れば変な二人だったが、比奈と春樹にとってはここからが大切な始まりだったのだから。
+++
それから暫くして春樹の仕事が忙しくなり週末に会うのもままならなかったが、それでも彼は毎日のように電話をくれた。
メールでいいのにと言っても、比奈の声が聞きたいからと。
春樹は本当に優しくて、いつも温かいまなざしを比奈に向けてくれる。
いつしか比奈の心の中は彼でいっぱいになっていたそんな時、久し振りにデートの約束をして、比奈は待ち合わせの場所に向かっていたが…。
ふと、視線の先に男性と女性が抱き合っている光景が目に飛び込んできた。
そして、その男性は―――春樹。
嘘でしょう?
どうして、春樹が女性と抱き合っているのか…。
それも、自分とデートをするために待ち合わせた場所で…。
思考回路が麻痺してしまった比奈は、どうしていいのかわからぬまま、気付けばただ走ってその場を後にすることしかできなかった。
どこをどうやって帰ったのかも、覚えていないくらい頭の中は真っ白だった。
誰もいないマンションに帰ると電気も点けずにダイブするようにベットに入る。
なぜか、涙が次から次へと溢れて頬を伝っていたが、自分はなぜ泣いているのか比奈自身にもよくわからなかった。
ただ、見知らぬ女性と抱き合っていた春樹を見て悲しかったのだ。
何度か携帯の着信が鳴ったけれど、一度も出ることはなかった。
―――言い訳なんか、聞きたくない…。
比奈は、そのまま電源を切った。
+++
次の日は泣き腫らした顔で出社したが、春姫はそれを見ても何も言わなかった。
自分から話すのを彼女は待っていてくれたから…それが、比奈にとっては救いだったかもしれない。
一日がこんなにも長かったのかと思いながら数日が過ぎ、比奈が仕事を終えて家に帰るとマンションの前に見知った車が止まっているのに気付いた。
―――春樹さん…。
気付いた春樹が、車から降りてくる。
比奈は反射的に逃げようとしていたが、今日に限っては体が思うように動かない。
段々と近付いてくる影を、ただ静かに待っているしかなかった。
「比奈ちゃんっ。やっと会えた」
悲しげに春樹が、比奈の名前を呼んだ。
何日ぶりに聞いたのだろう?ひどく、懐かしくさえ感じてしまう。
「どうして、あの日来てくれなかったの?電話してもずっと繋がらないし、俺すごく心配したんだよ」
優しく囁くように言う春樹の言葉に、思わず涙が出そうになった。
「ごめんなさい。私、もう春樹さんには会えません」
「どうして?」
予想だにしなかった比奈の言葉に、春樹は動揺を隠せなかった。
「俺のことが、嫌いになった?」
比奈は、ただ首を左右に振るばかり。
嫌いになんてなるはずがない。
好きになり過ぎたから、離れようとしているのに…。
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」
「とにかく、もう会えません」
春樹の横をすり抜けてマンションに入ろうとしたところで、咄嗟に腕を掴まれた。
「離してっ…ください」
「嫌だ。理由を言ってくれなきゃわからないよ。俺、比奈ちゃんのことが好きだから、急に会えないなんて言われても納得できないよ」
「嘘っ、好きなんて嘘。じゃあ、どうして私以外の女の人と抱き合ったりするんですか?私の心の中を占領しておきながら、今更ひどいですっ」
我慢していた涙が、一気に溢れ出してきた。
「比奈ちゃん…どうして…。まさか、見ていたの?」
春樹はあの時、元カノに泣きつかれていたところを比奈に見られていたとは思いも寄らなかった。
「本当は、私のことなんて好きじゃなかったんですよね」
「比奈ちゃん、誤解だよ。ねえ、俺の話を聞いてくれないか?」
「聞く必要なんて、ありません。もう、私のことなんて放っておいてください」
「そんなことできるわけないだろう?お願いだから比奈ちゃん、俺の話を聞いて。聞いた後でそれでももう会えないって言うのなら、比奈ちゃんの気持ち聞き入れるよ。だからっ」
「だからお願いだよ、俺の話を聞いて…」春樹は、比奈をそっと自分の胸に抱き寄せた。
初めは離れようと抵抗していた比奈も段々落ち着きを取り戻し、春樹の気持ちを聞き入れると彼の車の中にいた。
暫くお互い黙ったままだったが、春樹がそれを打ち消すように口を開いた。
「比奈ちゃん、ごめんね。俺のせいで、嫌な思いをさせてしまって。もう隠してもしょうがないから話すけど、比奈ちゃんが見たというのは前に付き合っていた女性なんだ。彼女の方から付き合ってくれと言っておきながら、自分から別れを切り出して…俺の中ではすっかり終わっているはずだったのに、何を思ったのかいきなりあの場所に現れて、やっぱり好きだとか言い出した。どうも、ずっとストーカーされていたみたいなんだ」
「ストーカー?」
「そう、元はと言えば、俺が蒔いた種だし、自業自得なのかもしれないけど。あの後すぐに、彼女の弟が連れ戻しに来たんだよ。彼女ちょっと精神的にまいってたみたいで、心配して後を付けていたそうだよ」
―――そうだったの?それじゃあ、春樹さんはもうその人とは何でもないの?
「信じて欲しいって言っても、真実味がないかな。でも俺が今好きで、これからもそれは変わらない本当に愛しているのは比奈ちゃんだけだから」
「春樹さん―――」
「俺さ、春姫から聞いて知ってると思うけど、女性関係は結構派手な方だったんだ。自分では全然いい男だとか思ったことはないんだけど、なぜか女性にはモテてね。俺から声を掛けなくても、綺麗な人が自分から寄って来てくれるんだよ。俺自身、恋愛に関してはどうも冷めた部分があって、どうしても本気で好きになることはできなかったけど、そうやって何人もの女性と付き合っていた頃に春姫が就職してね。春姫は昔からあんな感じで外見も少し派手だったし、小さい時から集団行動が苦手で、心を許すような友達もいなかったんだ。それが会社に入った途端にいい意味ですごく変わってね、よく話すようになった。毎日、比奈ちゃんの話ばかりだよ」
比奈は時折相槌を打ちながらも、春樹から目を逸らすことなくじっと見つめていた。
「内容は他愛もない日常の話だったけど、それでも春姫にとっては楽しいことだったんだろうな。普通の子のように話せなかった何年分もの時間を埋めるように話していたよ。いい友達ができてよかったって、心からそう思った。そのことがきっかけで、俺も付き合っていた女性と全て縁を切ったんだ。何となくそうしないといけないような気がしてね。だから、ここ一年以上誰とも付き合ってなかったし」
春樹は、苦笑しながらも話を続ける。
「春姫をここまで変えた比奈ちゃんは、どんな子なんだろう?ってずっと思ってた。俺は比奈ちゃんのことは全く知らなかったけど、春姫が話してくれる比奈ちゃんを自分の中で勝手に作り上げていたんだ。それがあの温泉旅行の写真を見た時に重なった。ずっと想っていた比奈ちゃんが、そのままの姿でそこに写っていたんだ。そうしたら、すぐにでも会いたくてね。自分から女性を誘うことなんてなかったし、あの時は正直春姫も一緒にいてくれてよかったって思ったよ」
「まるで、初恋の人に告白する気分だったよ」と恥ずかしそうに話してくれた春樹が、比奈はやっぱり好きだと思った。
「ごめんなさい。私が勝手に誤解して、春樹さんのこと信じられなくて…。私こそ、春樹さんに好きだなんて言われる資格ないのに…」
春樹は、今にも泣き出しそうな比奈の手にそっと自分の手を重ねて握り締めた。
―――どうして、この子はこんなにも自分を責めるんだ?
守りたい、側にいたい、抱きしめたい、そんなふうに思えるのは春樹にとって比奈ひとりしかいなかった。
「そんなことないよ。悪いのは全部俺だから、だからもう会わないなんて言わないで」
握り締めていた手を引き寄せて、もう絶対に離さないという思いを込めて比奈を自分の胸の中に抱きしめた。
「好きだ」
「私も好きです。春樹さんが、好きです」
「比奈ちゃん」
春樹は、比奈の頬に手を当てて顔を上向かせると唇を合わせた。
初めはそっと触れるだけの、そして啄ばむように触れては離れるくちづけを何度も繰り返す。
どんどん深くなる口づけに、どうにも春樹の方の歯止めが利かなくなってくる。
―――駄目だ。これ以上は、理性が利かない。
そんな春樹の気持ちなど裏腹に、比奈はくちづけの合間に甘い吐息を漏らす。
「俺。今夜は比奈ちゃんのこと、離したくないんだけど」
「なっ」
春樹にとっては、付き合ってすぐに抱き合うことなど当たり前のことで、それがこうやって比奈とはキスすら今が初めてなんていうことはありえないことだった。
「あっ、比奈ちゃん。赤くなってる」
クスクスと笑う春樹の顔が目に入る。
「もうっ、春樹さん。からかってるんですかっ」
恥ずかしさのあまりに春樹から離れようとする比奈だったが、抱きしめる手が余計に強まってそれを許してはくれなかった。
「駄目だよ。もう離さないって、決めたんだから」
もう一度、比奈にくちづけを落とすと春樹は心を込めて。
「愛してるよ」
その後、春樹の車は朝まで比奈の住むマンションの前に止まったままだった。
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