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Chapter16
2/E


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「脩二。お前、吉崎さんと付き合ってるのか?」

突然こんなことを言い出したのは、脩二の同期で一番仲のいい下山 吾郎(しもやま ごろう)。
久しぶりに吾郎の方から飲もうと誘われていつもの居酒屋に来ていたのだが、乾杯早々の吾郎の爆弾発言に脩二は飲んでいた日本酒が危うく気管に入るところだった。

「なんだよ、いきなり」
「どうなんだ?」

―――どうなんだって、言われてもなぁ…。
吾郎に真顔で言われて、どう返していいか複雑だ。
脩二には、未有と付き合っているという認識はない。
心の中では、そうなってくれればという願いはあるけれど…。

「別にどうもないよ」
「水くさいぞ?友達の俺にも黙ってるなんて」

すっかり脩二と未有が付き合っていると思い込んでいる吾郎は、脩二に内緒にされていたことが面白くないらしい。

「吾郎がどうしてそう思うのかはわからないけど、俺と吉崎さんは付き合ってはいないよ」
「え?」

手酌で徳利からお調子に日本酒を注ぐと、脩二は一気にそれを飲み干した。
それをじっと見つめながら吾郎は、まだ信じられないという顔をしている。

「だってお前ら、誰が見たってあれは恋人同士にしか見えなかったぞ?」

吾郎がこんなふうに言うのは、数日前の会社帰りに駅で偶然脩二と未有が二人でいるところを見掛けたからだった。
別に手を繋ぐとか腕を組むとかそういうことをしていたわけではなく、ただ並んで立っていただけなのだが、脩二が未有に話し掛ける仕草はとても愛しい人を見つめる目で、それに答える未有の微笑みを見れば誰だって二人が恋人同士に間違いなく見えただろう。
―――なのに付き合っていないだと?
脩二が嘘を言うはずがないし、けれど吾郎には納得できなかった。

「残念ながら、そういうことだ」

未有とは結構頻繁に食事に行っていたから、どこで見られても不思議ではない。
―――でも、周りからはそんなふうに見られていたとは…。
脩二にとっては嬉しいことだったが、実際そうでないことが少し寂しかった。

「でも、お前は吉崎さんのこと好きなんだろう?」

吾郎には言われなくても、それが確信だとわかっていた。
3年の付き合いで勘のいい吾郎には、脩二のことは手に取るように理解できたのだから。

「あぁ」
「そっか、でも彼女の方もまんざらでもなさそうだが」
「そうなら、嬉しいけど…」
「なんだよ。弱気だなあ」

吾郎が、ポンっと脩二の背中を叩いた。
未有が少なからず脩二に好意を持ってくれていることはわかっているのだが、どうにも自分の気持ちを伝える勇気が今の脩二にはなかった。

「俺さ、ずっと自分に自信がなくて、何でもやる前から諦めてた部分があったんだ」

それは、吾郎も思っていたことだった。
脩二は男の吾郎から見ても結構いい男だと思うし、仕事もできる。
なのに、どこか自分を卑下している部分があったように感じていた。

「それが、吉崎さんといると自然とそういう気持ちがなくなっていった。彼女は俺のいいところを全部言葉にしてくれるんだよ」

今まで脩二が気付かなかったことを、未有は自然に言葉にしてくれた。
それが、知らず知らずのうちに脩二の自信に繋がっていたのだ。

「そっか、お前が変わったのは吉崎さんだったのか」

―――ここ数ヶ月、脩二が見違えるほどいい男になったと感じたのはそのせいだったのか。
脩二とは部署が違うためにたまにこうやって飲むくらいしか、吾郎が顔を合わせることはない。
時々、会社の食堂で見掛けることはあったが、その時にハっとしたのだ。
髪型を変えたわけでも服装に手をかけたわけでもない、いつも通りの脩二だったのだが、何かが違っていた。
それが何なのかずっと気になっていたのだが、そういうことだったのか。

「彼女も同じでさ、外見はすごくおしとやかでおとなしい子に見えるけど実際は違う。普通女の子なら絶対好まないような店に連れて行っても平気だし、逆にそれがいいって言うんだ」

たまたま帰りが一緒になって脩二が誘った店は、お世辞にもおしゃれだとは言いがたいところだった。
それでも未有は、そこが好きだと言ってくれた。
女の子なら誰もが好まないような場所だったのに、あんなに可愛い未有が笑顔でそんなことを言ってくれる。
それは脩二自身を好きだといってくれているように思えて、とても嬉しかった。

+++

それからも、特に栢原との関係に変化が見られなかったある日のこと。

「未有いいの?栢原、他の子に取られちゃうかもしれないわよ?」

栢原が他所の部の子からも誘いを受けているのを知っていたが、だからといって未有にはどうしようもない。

「しょうがないでしょ?それは、栢原が決めることだもの」
「もうっ、未有ったら。そんな暢気なことを言っている場合じゃないわよ。栢原、大阪に転勤になるかもしれないのに」
「え、栢原が?」

―――そんな…栢原が、大阪に…。

「いいの?向こうで、可愛い彼女を作っちゃうかもしれないのに」
「嫌、そんなの…」

―――栢原が、あたし以外の子となんて…そんなの絶対に嫌。

「だったら、自分の気持ちをちゃんと言わないと」
「でも…迷惑じゃない?」
「何、言ってるのよ。そんなわけないでしょ?」

美久の言うように自分の気持をきちんと言わないと、きっと後悔する。



栢原は午後からずっと外に出ていて戻らない予定だったけど、どうしても直接会って気持ちを伝えたくて、未有は彼の住む最寄り駅でずっと待っていた。
どれくらい、時間が経ったのだろう?
電車が来たのか人の波が一斉に改札を出て来るが、そこに栢原の姿はない。
―――栢原、遅いなぁ…。
この電車にも乗っていなかった、そう諦めかけた時、ずっと待ちわびていた彼が最後に改札を抜けて出て来た。

「栢原っ」
「吉崎さん、こんなところでどうしたんだ?―――えっ、泣いてるの?」

栢原の元へ駆け寄った未有は、いつの間にか自分が泣いていたことには気付かなかった。
そんな未有を見て栢原は、躊躇いながらもそっと肩を抱き寄せる。

「ほんとにどうしたんだ?何があったの?」

それでも、未有は泣いたままで言葉を発しようとしない。

「吉崎さん、泣いてちゃわからないよ?」

肩を大きく揺らしながら泣いている未有を、なんとか落ち着かせようと栢原は何度も背中を擦っていた。

「栢原っ、大阪行っちゃうってほんと?」
「え?」

確かに大阪には行くけれど、それがなぜいつもは冷静な未有がこんなにも取り乱しているのか栢原にはわからなかった。

「それがどうしたの?」
「どうしたのって、栢原は平気なの?私は嫌だよ、栢原とこのまま離れ離れになるなんて」
「ちょっと待って、それって…」

どういうこと?と栢原は言葉を続けようとして、それをやめた。

「栢原のことが好きだから、会えなくなるのが嫌なの」
「――― 吉崎さん」

栢原は、自分の耳を疑った。
今、未有は確かに自分を好きだと言った…。

「俺だって吉崎さんのこと好きだから、離れ離れになんてなりたくないよ」
「じゃあ、どうして1人で大阪に行くのよっ」

未有は、真っ赤に充血した目で栢原を見上げた。

「吉崎さん、それ誰に聞いたの?」
「美久だけど」

―――やっぱり…。
栢原の思った通りだった。

「大丈夫だよ、心配しなくても。俺は吉崎さんを置いてどこにも行ったりしないから」
「えっ?でも…」

未有にはまだ、栢原の言葉の意味が理解できていない。

「大阪には行くけど、一週間だけだから。待ってて、すぐに帰ってくるよ」
「一週間って…、あっ」

やっと未有には、わかったのだ。

「美久ったら、また私のこと騙したのねっ!」

未有の涙はこの時、すっかり止まっていた。
そして、目の前にはクスクスと笑う栢原の顔があった。

「栢原っ、何笑ってるのよっ」

いつの間にかしっかりと栢原の腕の中に包まれていた未有は、今の自分の行動が恥ずかしくて、急いで栢原から離れようとしたが、逆に強く抱きしめられてしまった。

「だって、吉崎さん可愛いから」
「何よそれっ。私を馬鹿にしてるのっ」
「違うよ、そうじゃない。俺、すごく嬉しかったんだ。吉崎さん、俺のことなんて何とも思ってないと思ってたし、それが好きって言われて夢見てるみたい。ねえ、もう一度言ってくれる?」

未有は栢原の腕を外そうともがいたが、思いのほか力が強くてそれが敵わない。

「嫌よ。恥ずかしいもの」
「そんなこと言わないで。ねっ?」

耳元で囁くように言われてただでさえドキドキしていた心臓が、より一層早く動き出していた。
観念したように未有は栢原に言われるままに言葉を発していた。

「栢原が好き」
「俺も吉崎さんが好き、大好きだよ」

栢原は未有の涙の痕が残る頬を撫でると、唇をそっと合わせた。
軽く触れるだけの優しいものだったけれど、未有にはそれだけで十分だった。

「吉崎さん、こんなに顔が冷たくなって。一体、いつからここで待ってたの?」

―――え?いつって言われても。
未有は定時後すぐにここへ来たのだから、6時くらいには着いていただろう。

「6時頃…かな?」
「えっ、そんな前から―――」

―――自分が顧客先を出たのは確か8時を過ぎていたはずだ。それから真っ直ぐ家に帰って来たとは言え、それでも既に3時間近く経っている。
栢原がさり気なく手を握ってみれば、未有の両手はすっかり冷えて冷たくなっていた。

「吉崎さん、ダメじゃないか、こんなに手だって冷たくなって。とにかく、俺の家に行こう」

栢原は未有の肩を抱いたまま、あるマンションの中へ入って行った。
マンションはとてもひとりで暮らすような感じではなく、むしろファミリー向けの大型タイプで、玄関先に一軒一軒小さな門が付いている。
栢原の部屋は8階の一番奥にあり、鍵を回してドアを開けると未有の腰に手を回したままで中に入った。
玄関もかなり広くて驚いてしまう。
――― 実は栢原って、お金持ちのお坊ちゃんなの?
やはりそんなことが頭を過ぎり、未有はその場にボーっと突っ立ったままだった。

「吉崎さん、どうしたの?遠慮しなくていいから、早く中に入って」

栢原の声で我に返った未有は、靴を脱ぐと足元に差し出されたスリッパを履いて長い廊下を歩く。
先にあるガラス扉を開けるとそこはリビングだったが、これまた目の前の光景に驚きを隠せない。

「適当に座ってて。すぐに暖かいものを用意するから」

栢原はスーツの上着を脱いでもう一つのソファーの背に掛けるとキッチンの方へ入って行った。
―――ちょっと何これ?中もすごく広いじゃない。
本当に栢原、1人で住んでるの?
リビングも一体何十畳あるのかというくらい、とにかく広い。
今座っているソファーだって165cmの未有が横になってもまだ余りそうなくらい、大きいし。

「ねえ、栢原。ここに1人で住んでるの?」
「うん?」

対面式のキッチンから、ひょっこりと栢原が顔を出した。

「そうだけど、どうかした?」
「だって、こんなにすごいマンションに本当に1人で住んでいるの?」
「あぁ、ここ?親戚の伯父さんがマンション経営しててさ、安くするからって買わされたんだよ。家の1つも持ってないと嫁が来てくれないとかなんとかうまく言われてさ、おかげで35年ローンだよ」

苦笑する栢原だったが、会社に入社して4年目でこんなマンションを買えてしまうのだろうか?

「そうなの?でも伯父さんの言う通りかもね。こんなすごいマンション持ってたら、すぐにお嫁さん来そうだもん」
「そうかな。だったら、吉崎さんもそうなのか?」
「え?」

―――それってどういうことよ。
栢原がマンション持ってるからって、あたしがお嫁さんになるって言うの?

「それは…あたしはマンション持ってるからって、それだけで結婚を決めたりしないもの」
「そうだな。吉崎さんはそんな人じゃないもんな」

栢原は妙に納得しながらも、少し寂しそうなのは気のせい?だろうか。

「でも、俺は吉崎さんのそういうところ好きだよ」

―――え?栢原、またさらっとすごいこと言ってない?
顔を赤くした未有がその場で固まっていると栢原が両手にカップを持って、キッチンから戻ってきた。
その一つを未有の目の前に差し出すと、彼は隣に腰をおろす。
受け取ったカップには泡立てたクリームの乗ったカプチーノ、ちゃんとシナモンパウダーもかかってる。

「あっ、カプチーノ」

顔を上げた未有の目が輝いた。

「吉崎さん、好きでしょ?」

にっこりと笑う栢原の顔が、視界に入る。
未有のカプチーノ好きを栢原は知っていたが、まさか家でこれが飲めるとは思わなかった。

「これ、家でも作れるの?」
「あぁ、俺はエスプレッソが好きだから専用のコーヒーメーカーを買ったんだけど、それでカプチーノも作れるんだ」

―――いいなぁ、私も欲しいなあ。

「これからは、いつでも俺が作ってあげるから」

未有の思っていることがわかったのか栢原はそんなことを言ったが、それはいつでもここへ来てもいいよという意味なのだろうか?
せっかく栢原が作ってくれたカプチーノ、冷めては美味しくなくなってしまうから未有はそっと口をつけた。
苦い中にも少しだけ甘さが広がって「美味しい」。
そんな思いが顔に出ていたのだろう、知らぬ間に未有は微笑んでいたようだ。
栢原は、思わず未有を抱きしめていた。


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