今日が休みで良かった。
瑞希(みずき)はすっかり腰抜け状態になってしまい、不覚にも慎之介(しんのすけ)に抱かれてバスルームまで連れて行ってもらう始末。
慎之介が一緒に入るというのをさすがにそれだけは頑なに断ったけど、どこにも出掛ける気力もなくて、二人はただリビングのソファーで寄り添って座っていた。
慎之介は瑞希の肩を抱きながら、その艶やかでサラサラの髪に指を絡ませる。
会社では淡白な彼が、こんなにも甘々タイプだとは思ってもみなかった。
今まで付き合っていた彼女にも、こんなふうにしていたのだろうか?
瑞希がそんなことを考えていると彼が口を開く。
「なぁ。瑞希のご両親には、いつ会いに行けばいい?早い方がいいだろう」
「え?」
―――そうだった。
肝心なことを忘れていた。
瑞希は慎之介と結婚するのだった。
まだ恋人同士とも言えない関係なのにそれを飛び越えて結婚するという実感は湧いていなかったけれど、慎之介となら幸せになれる、瑞希にはそう思える確信があったから。
「そうね、すぐにでも連絡しておくわね。でも私が結婚したいなんて言ったら、お父さんもお母さんもきっと驚くだろうな」
そう言った時の驚いた父と母の顔が目に浮かぶようだ。
「でも、慎之介は本当にいいの?勢いで言っちゃったって後悔してない?」
慎之介の気持ちはわかっていたつもりだけど、もしかして無理をしているのかもしれないという気持ちも拭いきれなかった。
「瑞希は、俺と結婚することを後悔してるのか?」
「そんなことは、ないけど…」
「けど?」
「まだ、信じられなくて…」
慎之介の手が、そっとすべらせるようにして瑞希の頬に触れる。
「後悔なんてするはずがないだろう?俺は瑞希がイヤだって言っても絶対、離さないからな」
慎之介の言葉に瑞希はただ黙って頷いた。
+++
瑞希は自分の家に帰るとその日の夜、早速、母に電話を掛けた。
結婚したい人が居るから会って欲しいと告げると案の定、ものすごく驚いた声が返ってきて、どうも側にいて話を聞いていたであろう父までもが会話に割って入る始末。
何とか二人を落ち着かせて電話を切ったのだが、週末には相手の男性を連れて来るように言い切られてしまった。
そして次の日、瑞希は会社に行くとなんとも気恥ずかしいと言うかなんというか…。
今までとは違う、自分を見る時の慎之介の優しい眼差しに戸惑ってしまう。
週末に両親に会って欲しいのだと伝えなければいけないと思ってはいても、どうもそのタイミングを計れないでいた。
―――今夜、電話しよう。
そう思って、瑞希は帰り支度をするためにロッカーに向かおうとしたところで、バッタリと慎之介に会った。
「お疲れさん」
「今日も残業?大変ね」
「まぁな」
「仕方ないよ」って、少し疲れ気味の慎之介の顔が物語っている。
ちょうどいいところで会ったかなと瑞希は周りに誰もいないことを確認すると慎之介の側に近寄って耳打ちする。
「あのね。昨日、お母さんに電話したの」
「それで?」
彼の顔が急に真顔になった。
「うん。すごく驚いてたけど、とにかく相手の人を週末に連れて来なさいって」
「そっか、わかった。仕事が入らないように調整するよ」
「急でごめんね」
「何で、瑞希が謝るんだ。予測していたことだろう?」
慎之介は微笑んで瑞希の顎に指をあてて顔を上に向かせると掠めるようにキスをし、「遅くなるかもしれないけど、電話するから」と言い残して、また職場に戻って行った。
『ちょっ、ここ会社っ』なんて瑞希の言葉も、今の慎之介には届かない。
まったく彼にはドキドキとびっくりのされっぱなしで、心臓がいくつあっても足りそうになかった。
先に家に帰った瑞希がくつろいでいると、夜11時を少し回ったところで携帯が鳴り出した。
「もしもし?」
『瑞希?俺だけど、ごめんな遅くなって』
「うん、大丈夫。慎之介は、もしかして今まで会社だった?」
『あぁ、週初めからこれだもんな、なんか疲れたよ。あっ、でも瑞希の声を聞いたらすっかり疲れなんか吹っ飛んだけどな』
どうしてこう、瑞希を喜ばせるようなことを慎之介は言うのだろうか?
「無理してない?」
『してないさ。それより今日、小暮(こぐれ)と楽しそうに何話してたんだよ』
「はぁ?」
小暮というのは去年入社した瑞希と同じグループに所属する若者のことだ。
慎之介の『楽しそうに何話してたんだよ』という言葉にも、瑞希は全く思い当たる節がない。
「私、小暮君と楽しそうに話してた?」
『話してただろう?雑誌かなんか見ながらさ』
雑誌?言われて見れば昼休みが終わりに近付いていた時にグラビア誌を見ていた小暮が、瑞希に向かってこの子が可愛いとかスタイルがいいとかなんとか言ってたのを思い出した。
あまりに真剣に小暮が力説するから、それがおかしくて大笑いしたのだった。
だけど、それがどうしたというのだろう?
それに慎之介ったら、少し怒ってない?
「あれは、小暮君がグラビアアイドルについて力説するから、おかしくて笑ってただけだけど?」
『それでも、俺以外の男と楽しそうにするな』
「え?」
―――もしかしてそれって…嫉妬?ヤキモチ?
「慎之介?」
『俺さ、なんだか知らないけどさ、瑞希が男と楽しそうに話してるの見るだけですっげぇムカつくんだよ。って言うか、何お前、笑ってんだよ」
瑞希は笑いを堪えていたが、クスクスと笑う声が電話越しに慎之介に聞こえてしまったようだ。
「だって、慎之介ったら可愛いんだもん」
『お前なぁ、大の男に可愛いはないだろう。それに俺はマジで言ってんだぞ』
「ごめんごめん。だって、慎之介がヤキモチ妬いてくれたの嬉しかったんだもん」
『バカ言うな。誰がヤキモチ妬くかよ』
強がってるけど、電話の向こうで赤くなっているであろう慎之介の顔が目に浮かぶ。
―――ちょっと苛め過ぎたかな。
「ほんとごめんって。もう慎之介以外の男の人と楽しそうに話したりしないから、機嫌直してよ。ねっvv」
いつもならこんな可愛い言い方なんて絶対しないのだが、慎之介が拗ねちゃってるのを宥めるにはこうするしかない。
『わかればいいけどさ』
「うん、ごめんね。今度から気を付ける」
『同じ職場ってよくないな。瑞希のことが気になって仕事になんない。それにお前可愛いし、誰にでも愛想がいいから男が勘違いするし』
「なっ、何言ってるの?そんなこと、あるわけないじゃない」
―――慎之介ったら、考え過ぎもいいところ。
誰も瑞希のことをそんなふうに思ってなんかいないのに…。
友達から恋人になると、こんなにもお互いのことが気になって不安になるものなのだろうか?
それが普段、淡白な慎之介だけに余計想像できないことだった。
『瑞希が気が付いてないだけ、俺今日一日見ててわかったよ。結婚したら絶対、仕事辞めろ』
「そんな…」
―――気が早いって。
『ダメ、もう決めた。職場が変わったら尚、俺の目が届かなくなる』
まぁあ、慎之介と結婚すれば、職場は異動しなければならないだろう。
だけど、何もそこまでしなくてもいいと思うのに…。
「大丈夫よ。結婚してれば、誰も相手にしないって」
―――結婚してなくても、そうだと思うが…。
これ以上慎之介と話しても埒が明かない。
「それより、慎之介も疲れてるだろうしね。この話は、また今度ゆっくり話そう?」
『お前、誤魔化そうとしてないか?』
「そんなことないわよ。慎之介の身体を心配してるんじゃない」
『わかったよ。じゃあ、また明日な。おやすみ』
「おやすみ」
―――はぁ。
電話を切った後、瑞希はどっと疲れて大きな溜め息を吐いた。
慎之介がこんなにも独占欲が強い人間だったとは…。
それはそれで嬉しいことなんだろうけど、これじゃあ普通に話してたって疑われてしまうわ。
+++
そんなこんなであっという間に週末の金曜日、今夜は慎之介の家に泊まることになっている。
そして、明日はいよいよ瑞希の実家に行く日。
瑞希は会社で慎之介から家の鍵を受け取り、一度自分の家に帰って荷物を取ってから彼の家に来ていた。
―――さっき会社を出るって電話があったから、そろそろ帰ってくる頃かな。
瑞希は夕飯の支度をして彼の帰りを待っていると、ドアホンが鳴った。
「ハイ」
『俺だけど』
「今、開けるから」
瑞希は急いで玄関まで行くとドアを開ける。
なまじっか広い廊下は移動するのが大変だ。
「お帰りなさい。早かったのね」
瑞希が何気なく言った言葉に慎之介の足が止まる。
「慎之介、どうかしたの?」
「あっ、何でもないよ。ただいま」
「お腹空いたでしょ?もうすぐできるからね」
瑞希は踵を返してキッチンに向かおうとしたところを慎之介の腕によって捕らえられていた。
さっきから、何か慎之介の様子が少しおかしい。
本当にどうかしたのだろうか?
「慎之介?」
彼の唇が瑞希の唇を掠めた。
「ただいまのキス、してなかっただろう?」
「もうっ」
恥ずかしがって、慎之介の腕の中から逃れようとする瑞希をがっしりと捕まえて離さない。
「何かいいな、こういうの」
ポツリと慎之介が呟いた。
「誰かが家に居て出迎えてくれるのってさ」
お互い高校を出てからというものずっと一人暮らしをしていたから、少しこういうことからは遠ざかっていた。
―――でも、慎之介にはこういうことをしてくれる彼女が居たんじゃないの?
そう突っ込みたいところをグッと瑞希は我慢した。
「そうね。あっ、火付けっぱなしだった。焦げちゃう」
瑞希はそんな余韻に浸ることなくバタバタと音を立ててキッチンに戻って行った。
―――俺だけか…こんなふうに思ってるのは。
ガックリ肩を落として慎之介は彼女の後に付いて部屋に入った。
キッチンからは、いい匂いが漂ってくる。
「ごめんね、もうちょっとかかりそうなの。先にお風呂入る?それとも、ビール飲んで一杯やってる?」
カウンターからひょっこり顔を出した瑞希が慎之介に聞いた。
このセリフ、まるで新婚さんみたいだ。
しかし、言ってしまってから瑞希はしまったと思ったがもう遅い。
「ビールにする。風呂は瑞希と一緒に入るから」
―――絶対、そう言うと思ったのよ。
は、そうですか。
瑞希はさらっと聞き流すフリをして冷蔵庫からビールの缶を取り出すとグラスと一緒に慎之介の前に差し出した。
そしてキッチンで肉じゃがを作っているといつの間にかやって来た慎之介に背後から抱きしめられた。
「ちょっと何?今、肉じゃが作ってるんだから、大人しく待っててよ」
「俺は、肉じゃがより瑞希が食べたい」
耳に息を吹きかけられたと思ったら甘噛みされて、手はブラウスの上から胸を弄ってくる。
「あんもうっ、これじゃあ作れないでしょ?」
尚も、慎之介の手はその動きを止めようとしない。
「慎之介!本気で怒るわよ」
振り返った瑞希の大きな声にびっくりした慎之介の手が止まる。
「ごめん。あんまり瑞希が可愛いからつい…我慢できなかった」
シュンとなってしまった慎之介が、なんだか悪戯をして怒られている子供のようで少しかわいそうになってしまった。
なんて思ったのがいけなかったのだが…。
「もうちょっとだから。後でお風呂一緒に入ろう、ねっ」
慎之介の顔が、みるみる笑顔に変わる。
―――あぁ、私ったらなんて慎之介には甘いのかしら…。
これじゃあ、彼の言いなりじゃないねぇ。
だけど、この笑顔を見せられてしまうと無下に断れないのも正直なところ。
それにしても慎之介がこんなにも甘えん坊だとは思ってもみなかった。
はぁ…。
瑞希は気を取り直して料理の続きに取り掛かった。
ほどなくして、やっと夕食の準備も整って二人でテーブルを囲む。
「すっげえうまそう。瑞希って料理うまいんだ」
「意外とか思ってるでしょ」
慎之介の眉毛がピクピクしてる。
思っていることを言い当てられたせいか、返す言葉がない。
「いいわよ。みんなそう言うし、慣れてるから」
「ごめん、怒った?」
瑞希のつっけんどんな言い方に慎之介は怒ったのだと思ったようだ。
「うんん、怒ってなんてないわよ。それより、冷めないうちに食べてみて。慎之介の口に合うかどうかわからないけど」
「あぁ」
彼が、自信作の肉じゃがに箸をつける。
瑞希は何も言わない慎之介に不安を抱きつつも、返事を待った。
「美味いよ」
「ほんと?良かった」
この言葉が聞けてホッとした。
瑞希は意外と家庭的で一人暮らしを始めた学生時代から、いつも食事は自分で作っていたのだ。
でもあまり人に食べさせるという経験がないので少し不安ではあったから、慎之介の言葉はとても嬉しかった。
「ところで明日なんだけど、お昼くらいに向こうに着くようにしたいから、そうなるとこっちを何時頃出ればいいかしら?」
「うん、そうだなあ。途中道路が込んでなければ、3時間くらいで着くんじゃないか?」
―――ということは、9時頃出ればいいってことね。
「慎之介大丈夫?車運転するの。ここのところ、ずっと仕事で帰りが遅かったのに疲れてるんじゃない?」
今週末は、なんとか出勤にならないようにするために彼は連日遅くまで残業続きだった。
それが今日はまだ早い方だったけど、明日も朝早くから車の運転なんかして大丈夫なのか?瑞希は少し心配でもある。
「大丈夫だよ。俺は身体だけは丈夫だしさ、それに瑞希と結婚するためだからこんなことぐらいなんでもないよ」
「ねえ、慎之介っていつもそういうこと口に出して言うの?」
「いつもって?」
―――それは…前の彼女の時もそうなの?とは、さすがに言いにくい。
「瑞希以外の女の子の前では、言ったことないな」
「え?」
「瑞希、こういうことすごく気にしてるだろう?言っとくけど、この家に瑞希以外の女の子を入れたこともないし、食事を作ってもらったこともない。俺は今までそういう付き合い方をしたことがないんだ。結婚したいと思ったのも瑞希だけ、それだけ瑞希は特別なんだよ」
慎之介は瑞希の気持ちをちゃんとわかっていた。
言わなくても口に出さなくても、彼は瑞希の一番欲しい言葉をストンと胸の中にくれる。
「うん。ありがとう」
「ってことで、明日の朝は早いし、早く風呂に入ろう」
せっかくの言葉も虚しく、現実に引き戻された。
―――そうだ、さっき勢いで『お風呂に一緒に入ろう、ねっ』、なんてことを口走ってしまったのだ。
このギャップが凄過ぎる。
だけど、こうやって彼のことを一つずつわかっていくのかな?なんて思ったりもして。
あぁ、でもお父さんとお母さんは、慎之介を見てどう思うかしら。
もちろん、彼なら私にはもったいないくらいの人だから賛成してくれるに決まってるけど…。
瑞希は後片付けを済ますと、慎之介に従うべく一緒に恥ずかしいながらもお風呂に入ったのだが、彼女の不安を他所にそれからは例のごとく何度もイかされてしまい、知らないうちに眠りについていたようだった。
他のお話とカブっているように思えますが、見て見ぬフリを…。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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