それから、一週間ほどした3月のある日曜日の午後、例の同居人はうちに越して来た。
小豆沢 祐樹(あずさわ ゆうき) 22歳、仙台にある国立大学を卒業して、JT&Tという国内最大手の電信電話会社にこの春入社する。
生まれも育ちも仙台で、家は祖父の代から歯科医院を開業しているらしい。
祐樹の3歳年上の兄は今年大学の歯学部を卒業したばかり、2歳下の弟は今年20歳になる大学生だそうだ。
「こんにちは。小豆沢 慎二(あずさわ しんじ)の甥の祐樹です。よろしくお願いします」
そう玄関先で頭を下げたのは、やたらに背が高くて爽やかな笑顔が印象的な人だった。
―――わぁ、めちゃめちゃいい男じゃない。
というのが若菜の第一印象であったが、この際そんなことはどうでもいいことで…。
これからは祐樹と2人だけで、この家に暮らさなければならないのだ。
父と母は3日後にシンガポールへ立つ予定なのでそれまではいいとしても、それから先のことを考えると頭が痛かった。
「祐樹君、疲れたでしょう?さあ、遠慮しないで中に入って」
心なしか母の声がいつもと違っているのは、気のせいだろうか?
なにせ母はいい男に目がないわけで、父や若菜そっちのけで祐樹をリビングへ招き入れた。
若菜はそれを見届けると祐樹に挨拶することなく、自分の部屋に戻り机の前に座る。
頬杖をついて窓の外を眺めると日差しも柔らかくすっかり春の気配が漂っていたが、そんな陽気とは裏腹に若菜の心の中は暗かった。
コンコン―――
ドアをノックする音が聞こえる。
大方、母が何も言わずに部屋に戻ってしまった若菜を呼びに来たのだろう。
「開いてるわよ」
一応年頃の娘ということで、中学の時に日本に戻り暫くして新築したこの家に住み始めた頃から父の一言で部屋に鍵を付けたことと、入る時は中に居ることがわかっていても必ずノックをするという決まりごとになっていた。
「失礼します」
父でもない、母でもない声に若菜は椅子ごと回転させて振り返った。
そこに立っていたのは、さっき来たばかりのそしてこれから同居する相手の祐樹だった。
「え…」
まさか、祐樹が自分の部屋まで来るとは思わなかったので、咄嗟のことで何も言葉を返すことができなかった。
「若菜ちゃんごめんね、部屋まで来ちゃって。勉強中か何か、だった?」
それは違うということを伝えるためにフルフルと首を何度も左右に振った。
「さっき下に居たのを見かけたんだけど、すぐに2階に上がっちゃったから挨拶できなくて。今日からお世話になります、小豆沢 祐樹です。若菜ちゃん、よろしくね」
思ったより礼儀正しい青年だが、来月からは高校3年生になるこの歳で、名前をちゃん付けで言われるのは何だかむずがゆい。
「あっ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
若菜は、椅子から立ち上がるとぺこりと頭を下げた。
「俺は生まれてから大学までずっと仙台で暮らしていたから田舎者だし、東京なんて滅多に来ないから全然わからないんだよね。ここまで来るのに何度も迷ったよ」
頭の後ろを掻きながら、本当にまいったよという顔をしている。
外見はすごく都会的なのにそんなギャップが、若菜には何だかおかしかった。
「それにうちは男兄弟ばっかりだから、女子高生と同居するってだけでも家族に散々言われたのに若菜ちゃんがこんなに可愛い子だって知ったら俺、何されるかわからないよ」
ちょっと大げさだとは思ったが、祐樹に可愛い子などと言われて急に顔が熱くなってくる。
それを隠すようにずっと気になっていたことを口にした。
「あの…小豆沢さんは、どうして私との同居を承諾したんですか?普通だったら知らない人と一緒に住むなんて面倒だと思うし、ここでは彼女も連れ込めないんですよ?」
祐樹は若菜の言葉に首を傾げるようにして少し考えていたようだが、真っ直ぐに向き直ると話し始めた。
「確かに言われてみれば、面倒かもしれないね。それって若菜ちゃんも、そう思ったってことかな?」
「はい、思いました。まして相手は知らない男の人で、両親は一体何を考えているのかって」
明確な答えを言わないままで質問を質問で返すなと若菜は思ったけれど、これから同居をしなければならないわけだし、思っていることははっきり言った方がいい気がしていた。
「そうだね。1つ屋根の下に見ず知らずの男と女が一緒に暮らすんだからね、100%何もないとは言い切れないかもしれない。それはもちろん俺次第だから、そのことについては何度も念を押されたよ。可愛い娘をひとり置いていくご両親にしてみれば、俺を信じるしかないんだからそれは苦渋の選択だったんだと思う。それを覚悟で俺は、ここに住むことにしたんだ」
父と母はまるで心配していないような素振りだったけど、実はそうではなかったようだ。
しかし、なぜそこまでしても祐樹はここに住むことを受け入れたのだろうか?
「どうしてそこまでして、ここに住もうと思ったんですか?」
これは一番肝心で、一番聞きたかったことだった。
「どうしてかな?俺にもわからない…でも、そうしたかったんだ。うちは家族が多くて両親と兄と弟に祖父と祖母の7人家族で暮らしてたから普通は独り暮らししたいって思うんだろうけど、俺の場合は違ったんだよね。やっぱり家に帰ったら、誰かが居てくれた方がいいなって思ってね。俺、妹って憧れだったんだよ。実はすごく楽しみにして来たんだ」
そう嬉しそうに話す、祐樹。
よくわからないけど、本当に兄がいたらこんなふうに優しくしてくれるのかなと若菜は暖かい気持ちになっていた。
―――そうだったんだ…。
若菜はずっと3人で暮らしてきたし、父と母は子供の自分が言うのもなんだが、かなり仲がいい。
土日に泊まりで旅行に行くことも多かったから、ひとり残って若菜が留守番をすることもしょっちゅうだった。
それを特別寂しいと思ったことはなかったが、祐樹のように大家族で育った人にとってはひとりになることが寂しいと思うのは当たり前のことなのかもしれない。
「わかりました。私、小豆沢さんのこと信じてますから」
「ありがとう。約束するよ、可愛い妹に絶対手は出さないから。それから、呼ぶ時は祐樹でいいよ。これから1年間一緒に住むんだし、なんか苗字で呼ばれると堅苦しい感じがして」
そういうものなのだろうか?確かに若菜のことを安西さんなどと家の中で呼ばれることを考えたら、納得できなくもないが。
「それじゃあ、祐樹さん」
「う〜ん俺的には“さん”はいらないんだけど、まぁ、追々そう呼んでもらうよ。それに敬語もいいからね」
ニコニコと微笑む、祐樹。
―――追々って、どういう意味?
などと思ったが、それ以上は突っ込まなかった。
「そうそう、おばさんがお茶にするからって呼びに来たんだった。すっかり忘れてたよ」
「すぐに降りて来るんだよ」と言って、祐樹は部屋を出て行った。
閉められたドアをじっと見つめながら若菜は、ふっと溜め息を吐いた。
若菜の第一印象とはまるで違う人物に少々面食らってしまった。
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