「杵っ!お前、何やってんだ」
「すっ、すみませんっ」
どうやら、杵が何かやらかしたらしい。
それにしても、東郷があんな大声を出すなんて…。
「ねぇ。今日の課長なんだか妙にピリピリしてるけど、エリ何したの?」
東郷と杵のやり取りを見てやって来た沙希だったが、それは杵が何か失態をしたからで、エリは何もしていない。
どこをどうしたら、『エリ何したの』という話になるのだろうか?
「あのねぇ。あれは、杵君の話でしょ?どうして、“私”になるわけ?」
「だって。仕事に関しては厳しい課長だけど、あんなの見たことないから」
確かに沙希の言うように東郷は仕事に関して厳しいが、あれはどう見てもそれ以外のものが含まれているように感じるのは、エリも同じだった。
しかし、その理由は…。
「そうだけど…」
「何よ〜白状しなさいよ。課長と喧嘩でもしたわけ?」
「喧嘩って言うか…」
ここで沙希が引かないことを知っているエリは仕方なく席を立つと、コーヒーカップを持って給湯室へ向かった。
「で、どうしたのよ」
待ちきれない沙希は、せかすようにエリの耳元で囁くように言う。
そんな沙希を尻目に、エリはコーヒーを黙々と入れながら話始めた。
「昨日ね、先に帰って課長の家で食事の支度をしてたわけよ」
「うんうん、それで?」
沙希には、面白くて仕方がないのだろう。
目が輝いている。
―――だから、社内恋愛っていうのは嫌なのよ…。
こんなことがある度に、こうやって突っ込まれるに違いないのだから。
エリは小さく溜息を吐くと、話を続けた。
「私が家で待ってることは言ってあったのに自分で鍵を開けて入って来るし、なんだか怒ってる感じで」
エリが家で待っていることは東郷に告げてあったはずなのに、なぜか彼は自分で鍵を開けて入って来たのだ。
いつもならブザーを鳴らすのでエリが出迎えるのだが、昨日に限ってはそれがなく玄関で物音がしたので急いで行くと、沙希には内緒だがいつもならただいまのキス?!をするはずなのに小さな声で『ただいま』とだけ言うとさっさと中へ入ってしまったのだ。
その表情はムッとしているというか、怒ってる?という感じ。
「ってことは、課長とエリは喧嘩したわけじゃないの?」
「その時はね」
「え?」
昨日の晩に喧嘩をしたのだとばかり思っていた沙希だったが、どうも話を聞いていると東郷は帰って来る前から既に機嫌が悪かったよう。
でも、その後に何かあったのだろうか?
「どうしたんですか?って聞いたのよ、あんまりムッとしてるから。そうしたら、課長なんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
「『俺以外の男と楽しそうに話すな』ですって。呆れて、声も出なかったわ」
東郷の好きなものを作ったというのに何も言わずに食べ始めるし、その間エリが話し掛けても“あぁ”とかたまに相槌を打つだけ。
さすがにこういう態度を取られると、エリも自分が何かしたのではないかと心配になってきた。
しかし、いくら考えても身に覚えはない。
会社を出る時、挨拶した時までは普通だったのだから。
「うそ…あの大人な課長が、そういうこと言うわけ?」
「それが、言ったのよ」
大人だと思っていた東郷は、実はそうではなかったということ。
― *** ―
『課長、言ってる意味がわからないんですけど』
『二人だけの時は、課長と呼ぶのはやめてくれと言ってるだろう?』
あまりに冷たい言い方をされて、エリは仕方なく一士と名前を呼ぶと少しだけ彼の表情が和らいだ気がした。
『楽しそうって、私がいつ誰と楽しそうに話してたんですか?』
『身に覚えはないのか』
―――身に覚え?
そんなのないから、言ってるんじゃないねぇ。
『ありませんが』
『そうか』
それだけ言うと、東郷は食事の途中でソファーの方へ行ってしまった。
―――そうか、って。
一体、なんなわけ?
『はっきり言ってくれないと、わからないんですけど』
段々とエリも頭に血が上ってきて、ソファーに座っている東郷の前に仁王立ちして問い詰める。
『帰り際だよ』
『帰り際?』
『杵と楽しそうに話してただろ』
普段から仲のいい杵とは、くだらない話で盛り上がることも多い。
なのになぜ今になって、こういうことを言うのだろうか?
『杵君とは、いつも話してますけど』
『それは、わかってる。わかってるけど…』
エリが部内の男性社員と楽しそうに話しているのは、今に始まったことではない。
東郷が異動して来た時からそうだったのだが、帰り際に見た光景だけは彼にはどうしても我慢できなかったのだ。
『か、一士?』
『嫌だったんだよ。杵がエリに触ったのが』
『え?』
その時のことを思い出してみると、確かに杵はエリに触った…かも。
触ったといっても、シャツの襟をほんの少し直してくれただけ。
たったそれだけのことで、東郷はここまで怒るというのか…。
『エリが無防備だから。あいつ、絶対エリに気があるに決まってる』
『はぁ?』
―――気があるって…。
杵君には、可愛い彼女がいるのよ。
それ、知らないのかしら?
『杵君には、ちゃんと可愛い彼女がいます。それに触ったって、私のシャツの襟を直してくれただけじゃないですか』
『可愛い彼女がいたって、わからないだろ?』
『課長じゃなくて、一士は何か勘違いしてますよ。杵君は、私に付き合っている人がいることも知っています。彼そういうところは鋭くて、私の服装とか髪型とかで全部わかってました。自分の彼女もそうだからって』
―――なのにそんなことで…。
嫉妬してくれてるのかもしれないけど、こんなんじゃこれから誰とも話ができないじゃない。
『たとえそうだとしても、俺の考えは変わらない』
『課長は、そういう人だったんですね?そんなので人の上に立つなんて、聞いて呆れますね』
『なんだと』
『もういいです。課長の本性がわかったので』
エリは吐き捨てるように言うと、バックを持って東郷の部屋を出てきてしまったのだ。
― *** ―
「そうなんだ。でも、可愛いじゃない」
「可愛い?」
「そうよ。そんなことで、嫉妬してくれるんだから。うちの彼氏なんて、男の人と話してたって全然だもん」
「だからって…。それにさっきのは、もっと許せない。八つ当たりなんて、杵君かわいそう」
「それは、エリがどうにかするしかないでしょ?このままだと、課長の被害を受ける人は拡大するんじゃない?」
―――はぁ…。
付き合ってみなければ、わからないことも多い。
エリが折れない限り、東郷の機嫌は直らないだろう…。
どうしたものかと席に戻ると、祥子と楽しそうに話している東郷の姿が目に飛び込んで来た。
仕事の話だとはわかっているし、何度も目にしているのに…。
なんとも言えないモヤモヤした気持ちが、エリの中に湧き上がってきているのがわかる。
―――課長も、同じだったんだ…。
東郷だけが悪いように言ってしまったエリだったが、実はエリも同じ。
いてもたってもいられなかったエリは、携帯を取り出すと机の下で見えないようにメールを打った。
直後、誰かの携帯に短い着信音が鳴る。
それを取ったのはもちろん東郷で、発信者がエリだとわかると目の前に祥子がいてもメールを開いてしまう。
そこにはひと言『ごめんなさい』とだけ書いてあったのだが、それを見た東郷の顔が一瞬緩んだのを祥子は見逃さなかった。
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