医者に言われた通りに一週間ほど静養した東郷は、元気に会社に出社した。
「おはようございます、課長。もう体の方は、大丈夫なんですか?」
「あぁ、おはよう。心配かけてすまなかった。おかげさまで、すっかり元気になったよ」
東郷の姿を見るなり声を掛けたのは、同じグループの若手社員。
その会話を聞いて先に来ていた者達が、一斉に東郷の周りに集まってきた。
しかし、その中にエリの姿はない。
◇
その頃ちょうどエリは、会社に向かっている途中だった。
―――あ〜ぁ。今日から課長、出社するのかぁ…。
倒れたと聞いてすぐ見舞いに行った日から、ほとんど毎日のように東郷の家に通っていたエリ。
元気になって会社に出て来るのは嬉しいはずなのに、なぜか気が重い。
取り敢えず?!恋人同士になったわけで、そういう相手がすぐ目の前にいるというのはどうなんだろう…。
社内恋愛経験のないエリには、どうすればいいのかよくわからない。
それを昨日、東郷に話したのだが…。
「課長」
「その課長っていうのは、やめてくれと言っただろう?」
「それはわかってますけど、明日から出社するんですよね。もし、名前でなんて呼んでしまったら、大変じゃないですか」
東郷はしきりに名前を呼んでくれと言うが、ついうっかり会社で名前を呼んでしまったら大変だと、エリは頑なに拒否し続けていたのだった。
まぁ、あの時だけは仕方なく言ってしまったけれど…。
「それは、それだろ」
「えっ、課長はいいんですか?みんなに知られてしまっても」
社内恋愛禁止ということはないけれど、そういう噂はすぐに広まってしまうだろうし、課長という職に就いているのだから、もしそんなことになったら上からも色々言われるに違いない。
「エリは、どうなんだ?俺とのことは、隠すようなことなのか?」
「そういうわけじゃ…」
―――そういうわけじゃないけど、先のことなんてわからないわけだし…。
「だったら、いいだろう?それに、この先ずっと課長って呼ばれ続けるのはなぁ。俺は、そんな軽い気持ちで付き合ってるんじゃないんだ。歳も歳だしな」
そう言うのと同時に東郷の胸に抱き寄せられて彼の顔を見ることはできなかったが、真剣な想いを感じて嬉しい反面、エリは戸惑いを感じないわけではなかった。
そして、エリが会社に着くとなにやら騒がしい。
見れば東郷の周りには、部内の人間ならずとも彼のファンであろう他の部署の女子社員までもが集まって来ていた。
それだけ東郷の人気は、高いということなのだが…。
人だかりを避けるようにしてエリは自分の席に座り、パソコンを立ち上げる。
―――きっと、沙希はすっ飛んで来るわね。
その様子が手に取るようにわかるので、エリは気付かれないように溜息を吐いた。
◇
案の定、沙希はすぐにすっ飛んで来て散々冷やかして去って行った。
『課長少し太ったんじゃない?エリが、毎日食事を作ってあげたからかしら。フェロモンギンギンって感じだしっ。キャー。あれじゃぁ、益々女子社員の人気を上げたわね』
という具合に…。
―――何が、フェロモンギンギンよっ。
あ〜ぁ…。
「城崎」
「・・・・」
「おいっ、城崎。聞いてるのか?」
「え…」
ボーっとしていたエリは、東郷が何度も自分の名前を呼んでいたことに気付かなかった。
慌てて東郷の前に行ったのだが…。
「どうしたんだ?何度も呼んだのに」
「すみません」
「午前中に仕上げるように言っていた資料は、間に合いそうか?」
「資料?…あっ…えぇぇぇ?!」
午前中に作らなければならない資料があるからと、朝一番で頼まれていたのをエリはすっかり忘れていたのだ。
「お前、その様子だとやってないのか?」
「すみませんっ。すぐ、作ります」
エリは急いで自分の席に戻るとなんとか間に合うように資料作成に取り掛かったが、そんな彼女を心配そうに見つめる東郷には気付かなかった。
◇
結局、午前中には間に合わず、昼休み返上でエリは仕事をしていた。
自業自得といえば、それまでで…。
―――なんか、今日ツイてないかも…。
朝のテレビの占いではそう順位は悪くなかったはずなのに、なんだかツイていないように思うのは気のせい?
自分が悪いのに人のせいにしてしまう。
すると、不意に後ろから頭を小突かれた。
「痛っ」
―――何よ、痛いわね!
え?
こんなことが、少し前にもあったような…。
ゆっくり振り返ると、あの時と同じビニール袋を手にした東郷が立っていた。
「ホレ」と渡された袋の中には、やっぱりあの時と同じサンドイッチとヨーグルトにペットボトルのお茶が入っている。
こんなところが、東郷らしいと思ったりして…。
「何、笑ってんだよ。で、どうなんだ?間に合いそうか?」
思っていたことが顔に出てしまったのか、エリは知らず知らずのうちに笑みを浮かべていたよう。
そんな場合じゃないのだが…。
「はい。もうできてますから、後はチェックだけです」
「そうか」
安心した様子の東郷だったが、やはりエリのことが気になっていた。
「なぁ、どうしたんだ?目も合わせてくれないし」
「え?」
いきなりの東郷の言葉に、エリは咄嗟に周りを見回した。
幸いなことに昼休みが始まったばかりでみんな食堂に行っていたから、フロアにはエリと東郷しかいなかった。
だからといって、この発言は…。
「課長。そういういことは、会社で言わないでください」
「誰もいないんだから、いいだろ?」
東郷は隣の席に腰掛けると、椅子をエリの方へ寄せて顔をぐっと近づける。
―――ヤダ、こんなところを見られたら、また色々言われちゃうじゃないっ。
特に沙希にっ。
「誰もいないからって、仮にも課長なんですから。場所をわきまえてくださいよ」
「課長だって、人間だからな。好きな子がすぐ側にいるってのに、目も合わせてもらえないなんてなぁ」
「好きな子って…」
―――課長、なんか人が変わってません?!
なんだか恥ずかしいからワザと目を合わせなかったのだが、そんなふうに思っていたなんて…。
『こんなところで!』と思ったけれど、東郷に射抜くような目で見つめられて、暫くの間逸らすことができなかった。
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