「城崎、ちょっといいか」
エリが出社すると、一士はそれを待っていたかのように席を立ち上がって先に行ってしまう。
―――朝っぱらから、一体何かしら?
取り敢えず手帳だけを持って、急いで後を追うとそこは会議室。
一士は使用中の札に替えると室内の電気を点けて、手前の席に腰掛けた。
「朝からすまないが、重要な話だからよく聞いて欲しいんだ」
「はい」
―――重要な話って…。
昨日までは何もなかったのに急に何があったのかしら?
「実を言うと俺にとっては、あまりいい話じゃないかな」
彼の表情を見ればそれはわかるが、一士にとっていい話ではないというのはどういうことなのか?
小さく息を吐くと、エリの目を見ながらゆっくり話し始めた。
「今度、通信事業部で新しいプロジェクトを発足することになって、うちからも数名出すことになったんだ。そのメンバーにエリが選ばれた。一応、期間は最低で3年」
「通信事業部って…それに最低3年も?」
通信事業部は数県離れたところにあって、この場所からは特急に乗っても1時間半はかかるところ。
とても、ここから通うことなどできないだろう。
それに期間が最低3年となれば、それ以上になることも…。
「転居は、避けられないかな」
「そんな…」
―――転勤って…私達、遠距離恋愛になっちゃうわけ?
せっかく、結婚の話も進んでいたというのに…。
部署が変わるくらいで済むとばかり思っていたのに、いきなりの転勤話にどう受け止めていいかエリにはわからなかった。
「重要なプロジェクトだから、そのメンバーにエリが選ばれたことは本当なら非常に嬉しいことなんだけど…」
一士だって、複雑な思いに変わりはない。
自分の部下が選ばれたことは喜ばしいことだったが、それが愛しい彼女となれば話は別。
離れ離れになることは、もちろん寂しい。
しかし、エリはやっと仕事がおもしろくなってきたばかりだし、このまま行けば出世だってできるはず。
結婚して家庭に入るという手もないこともないが、年齢的にどうなのだろう…。
「断るわけには…」
「無理にとは言わないが、その後は俺にも保証できない。ただ、結婚となれば話は別だろうな。部署の異動と共に仕事の方は今までとは少し変わるかもしれないけど」
このご時世、異動を断れば出世どころかどこに回されるかもわからない。
結婚するという前提であれば仕事は今までと同じと言うわけにはいかないが、恐らく社内の異動で済むだろう。
「俺は、エリが嫌ならいつでも引き受けるから」
「一士…」
上司が彼氏でなければこういう話にはならないだろうが、その言葉は嬉しい反面逃げているような気もしなくもない…。
「でも、もったいないと思う。俺が言うとあんまり真実味がないんだけど、エリは将来有望だから。だからって、勧めるわけじゃないぞ。離れ離れは辛いからな」
これは、一士の本音だった。
本当は、一分一秒だって離れていたくない。
でも、こればかりは本人が決めるより仕方がないのだ。
「エリ自身も、もう少し仕事をしたいと思っているんじゃないか?だったら、少し考えてみてくれないか。もちろん、俺も相談には乗るから」
エリは黙って頷くと二人は揃って自分の席に戻った。
◇
―――はぁ、困ったなぁ。
転勤なんてねぇ。
自販機でコーヒーを買ってから席に戻ると、沙希が待ってましたとばかりにエリのところへやって来た。
「ねぇねぇ、エリ。課長と朝っぱらから、何の話だったの?」
「うん…」
エリの表情を見れば、あまりいい話ではなかったことは理解できる。
「どうしたの?」
「異動の話」
「異動?」
結婚するという話は聞いていたが、まだ日取りも決まっていないのに異動とは偶然なのか何なのか…。
「それも、通信事業部に短くて3年だって」
「え?通信事業部って…うそ、あんな遠くに3年も?」
異動と聞いて沙希はてっきりこの事業所内のことだとばかり思っていたが、まさかあんな遠くの事業所に異動とは…。
それも、短くて3年なんて…。
「引っ越さなきゃならないってこと?」
「そうなるわね」
「なんでまた、この時期に」
これは運が悪いとしかいいようがないと、沙希は思った。
「よね。あ〜ほんと、どうしようかな」
「で、課長は何て言ってるの?」
「嫌なら引き受けるって言ってくれてるんだけど、ここで辞めるのはもったいないって」
沙希から見てもエリは男性顔負けに仕事をこなしているし、このままいけばすぐにでも主任に昇進するのは確実。
その先の課長だって、そう遠くない話だろう。
一士のもったいないという言葉は上司として当然の見解かもしれないが、それが彼女となれば複雑な思いに違いない。
「私から見てももったいないとは思うけど、3年は長いわね」
「そうなのよね。3年で済めばいいけど、行ってみなければわからないし」
考えてみてくれないか?と言われても、どうしていいかわからない。
妊娠していないとわかった今、結婚はともかくとしてすぐに家庭に入るというのもどうなのか?できれば仕事を続けたいとは思うし、続ける以上は第一線に身を置きたいと思う。
ただ、その前に一士と離れてまで仕事を取るべきなのだろうか…。
―――3年かぁ…。
1年だったらまだしも、3年もしくはそれ以上に及ぶかもしれない。
そんなに離れていられるかなぁ…。
あぁ、でも何であたしかな…。
もし、誰とも付き合っていなかったら喜んで行ったかもしれないことも、今となっては何で?と思わずにはいられない。
仕事を取るべきなのか、恋を取るべきなのか…。
「でも、すっごく遠くってわけじゃないし、週末に会おうと思えば会えるじゃない。そこそこ、お金はかかるけどね。それに案外、距離を置いた方がお互いのことを知るにはいいかもしれないし」
「なんかそれって、他人事じゃない?」
―――そりゃ、沙希にとっては他人事よね?
距離を置いた方がお互いのことを知るにはいいかもしれない、なんて。
「ほら、週末婚とかあるじゃない。あれは?今はお互い想い合っててもこの先どうなるかわからないわけだし、まず籍だけ入れちゃってさ」
「あのねぇ」
―――沙希ったら、テレビの見過ぎだって。
まぁね、確かに離れてわかることもあるだろうけど。
でも…。
一士と離れ離れになるのは辛いけど、だからといって彼に甘えてしまってもいいのか?しかし、行くと決めれば中途半端で投げ出すわけには行かない。
それを決めるのは、自分―――。
エリは大きく息を吐くと、そのことはひとまず置いて今の自分に課せられた仕事を片付けることに専念した。
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