素直になれなくて
STORY2


悪夢のように忙しかった仕事もピークを超えて、いつもの平穏な日々に戻りつつあった。
というか、東郷のやり方に慣れてきたと言った方がいいのかもしれない。
今日は定時で上がれた為、久しぶりに沙希と二人で飲みに来ていた。

「もう、ビール飲むのなんてチョー久しぶり。やっぱ美味しいわ」

エリが忙しく時を過ごしているうちに季節はいつの間にか梅雨に入っていて、段々と夏が近づく頃になっていた。

「ほんと、エリと飲むのもいつ以来かしらね」

この前飲んだのは、確か東郷の歓迎会の時だった。
―――あぁ、また嫌なことを思い出してしまったわ。

「ところで、エリと東郷課長ってすっごい仲がいいけど、何にもないわけ?」
「はぁ?」

―――冗談じゃない。
何で、課長と私が仲良くしなきゃならないのよ。

「どこからそういうのが出てくるのか、こっちが聞きたいわよ。大体、どう見たらあの課長と仲がいいって見えるの?」
「そうなの?あんた達二人を見ていたら、そう思うけどね」

―――まったく、沙希は何を言い出すのやら…。
エリは、小さく溜め息を吐いた。
確かに東郷とは初めて会った時に比べれば砕けて話せているかもしれない、だからといってそれが仲がいいということにはならないだろう。

「全然そんなことないって、私ヘマばかりして課長にはいっつも怒られてばっかりだしさ」
「確かに東郷課長はエリには厳しいかもしれないけど、それと同じだけ優しさを感じるのは私だけかな?」
「え?」
「東郷課長のエリを見る時の目ってすごく優しそうで、羨ましいなって思うけどな」

沙希の言う通り東郷は口では厳しいことを言っているが、目を見るといつだって穏やかで優しい。
それは、エリも最近になって気付いたことだった。
けれど、それに何か他の意味があるというのだろうか?

「それは、誰に対しても同じなんじゃない?」
「そうかな?」
「そうよ。それより、もう課長の話はやめない?せっかくいい気分で飲んでるのに、あの人のことなんて思い出したくないもの」

エリは、グラスに残ったビールを一気に飲み干した。

「まったく素直じゃないな、エリは」

最後に沙希が呟くように言った言葉は、店の雑音に掻き消されてエリには聞き取ることができなかった。

+++

その日は、朝から身体がダルかった。
単に仕事疲れからきたものだろうと軽く考えていたのだが、どうも様子が違う。
それは午後になってから余計ひどくなってきていたが、どうしても今日中に仕上げなければならない作業をキツイ身体に鞭打って続けていた。
―――なんで、今日に限ってこんなに調子が悪いのよ。
さっき売店で買ってきた栄養ドリンクを飲むと、少し身体が楽になったような気がした。
時刻は20時を少し過ぎたところ、いつもならまだ人が残っている時間だったけれど、気が付けば東郷とエリしかいない。
―――そう言えば、今日は定時退勤日だったっけ。
今日は週に一度の定時退勤日、みんなさっさと帰ってしまったようだった。
ちらっと東郷の方に視線を向けると、真剣に書類に目を通す姿が見える。
―――課長は、帰らないのかしら?
などと余計なことを考えつつも、早く終わらせなければという焦る気持ちで作業を続けていた。

「どこまで、できてるんだ?」

声の方を振り向くと思いの他至近距離に東郷の顔があって、エリは驚きのあまり思わず反射的に仰け反った。

「うゎっ」
「おい、大丈夫か?」

椅子から落ちそうになったエリを東郷が腕を掴み、寸でのところで食い止めた。

「すみません」

そして―――。

「ひぇっ」

急に冷たいものが額に触れて、エリは思わず素っ頓狂な声を上げた。

「やっぱり、熱あるな」

東郷が、エリの額に手を当てて言った。
―――熱?
そう言えば、エリにはさっきから身体中が火照っているかのように熱いという自覚はあったけれど、それが熱だとまでは考えていなかった。

「残りは俺がやっておくから、お前は帰って寝てろ」
「これ位、大丈夫です」

エリは思いっきり作り笑顔で返事を返したけれど、それは何の意味もなしていなかったようだ。

「そんな真っ赤な顔で潤んだ目をして大丈夫だって言われても、納得できるか?」
「本当に大丈夫ですから…」

よりによって残りを東郷にやってもらうなどとは、エリにはとても素直に”はい”とは言えなかったのだ。

「駄目だ。これは上司命令だぞ。なあ城崎、ここで無理しても何にもならないだろう?まだまだこれから先も大変なんだから、本気で倒れられたら俺だって困るんだよ」

真剣な眼差しで見つめてくる東郷にエリはこれ以上言うことはできず、素直に従うより他ないと判断した。

「はい、わかりました」

エリの言葉にようやくホッとしたように残りの作業部分を確認すると、東郷は自分の席に戻って行った。

「1人で帰れるか?」と聞かれてさすがにそれは大丈夫だと答えたエリだったが、本当はかなりまずい状態だった。
パソコンはそのままにしておいていいと言われ、エリは身の回りの整理だけして立ち上がろうとしたが、急な眩暈に襲われてそのままずるずると椅子に座り込むようにして机にうつ伏せた。
いつまでも帰る気配のないエリを不信に思った東郷が視線を向けると、机にうつ伏せているエリが目に入る。

「おいっ、城崎、大丈夫か?」

駆け寄って来た東郷にかろうじて顔を起こしたエリが「ちょっと立ち眩みがしただけです、本当に大丈夫ですから」と弱々しい声で答えたが、どう見ても大丈夫になど見えやしない。
―――これはまずいな。
1人で帰らせるのは無理だと東郷は、車でエリの家まで送ろうと駐車場まで連れて行くことにした。

「取り敢えず、立てるか?」
「は…い」

エリは東郷に肩を抱かれるようにして立ち上がると、社員用の駐車場へ向かう。
見覚えのあるシルバー・メタリックの車の前で立ち止まると東郷がキーを回してドアを開け、エリに乗るように促したが、どうしたのかなかなか乗ろうとしない。

「どうした?」
「あの…」

東郷が自分の車でエリを家まで送ろうとしていることはわかったが、ここまで迷惑を掛けてしまってこのまま乗っていいものかどうか躊躇われた。

「気にするな」

そんなエリの気持ちを察したのか、東郷は優しく微笑みながらそう言うとエリは黙って頷き、東郷はエリを抱き上げて助手席に座らせるとベルトを締めてシートを少し倒し自分の上着を掛けた。
そして東郷は「すぐ楽になるから、もう少し我慢しろよ」と優しく声を掛けて運転席に回り、車が走り出した時にはもうエリの意識はすっかり遠のいていた。

暫くしてエリの住むアパートの前に着くと東郷のエリの名前を呼ぶ声で、意識が少しずつ戻って来た。

「城崎、着いたぞ」

東郷に部屋の鍵を出すように言われ、鞄の中から出して渡すとさっきと同じように抱かかえられてアパートの2階のエリの部屋まで運んでくれた。
東郷は背は高いがスマートな身体つきからは想像できないほどがっしりとしていて、エリを軽々と持ち上げた。
玄関のドアを開けると東郷は「入るぞ」とひと言断ってから中に入り、奥の部屋のベットにエリを座らせてブラウスのボタンを少しだけ開ける。
本当はこのまま寝かせると洋服が皺になってしまうのだが、さすがに東郷がここで脱がせるわけにもいかない。

「服が皺になるから、あとで着替えておけよ」
「はい…。すみません、ご迷惑おかけして」

東郷は微笑むと、エリをベットに寝かせた。
エリのために仕事も途中で放り出してきてしまった東郷は、これから会社に戻って作業を続けるのだろう。
それを思ったら、これ以上世話をかけるわけにもいかない。

「あの、課長。もう大丈夫ですので」
「そうか、じゃあちゃんと熱測って薬も飲んでおけよ。もし、何かあったらすぐに電話してくれ」

そう言って東郷は携帯の番号をメモに記すと、近くにあったローテーブルの上に置いて部屋を出て行った。
そして、エリも静かに眠りに引き込まれていった。

どれくらい眠ったのか、エリがゆっくり目を覚まして時計を見ると22時を少し過ぎたところだった。
確か会社を出たのは20時頃だったから、1時間ちょっと眠っていたことになる。
―――課長、まだ仕事してるのかしら…。
そんなことを考えながら、さっきよりは少しマシになった体を起こしてベットから出ると、東郷に言われたことを思い出して服を着替えた。
取り敢えず熱を測ってみると37度8分あった。
熱を出すなんてかなり久しぶりだなと思いつつもあまり食欲はわかなかったが、薬を飲むために冷蔵庫にあったヨーグルトを少しだけ食べた。
そして、ふとテーブルの上のメモに目が行く。
それはさっき、東郷に何かあったら電話をするように言われて渡されたメモだった。
エリは無意識にバックの中に手が伸びて、携帯のボタンを押していた。
3コール目で相手が電話に出た。

『もしもし、東郷ですが』
「あの…城崎です。こんな時間にすみません」
『城崎?どうした、何かあったのか?』

見慣れない番号だなと思いつつも、いきなりエリが電話をしてきたから東郷は何かあったのかと思い、慌てて返事を返す。

「いえ、そうじゃないんですけど…課長はまだ会社ですか?」

何もなかったことに安堵した東郷だったが、エリの言葉に仕事のことを気にして電話を掛けて来たのだと悟る。
『自分の体のことだけを考えてればいいのに…こういうところは責任感が強いんだよな』と東郷は思う。

『あぁ、でももう終わったからすぐに帰るよ。城崎、そんなことでわざわざ電話を掛けて来たのか?』
「私のせいで課長にご迷惑をおかけして、すみませんでした」
『気にするなって言っただろう。それより、体はどうだ?』
「はい、少し眠ったらだいぶ楽になりました。今薬を飲んだところなので熱もそんなになかったし、すぐに下がると思います」
『そうか、良かった。俺のことなんかいいから、無理しないで早く横になった方がいいぞ。元気な姿の城崎しか俺は認めないから、明日は休んでもいいからな』
「本当にご迷惑かけて―――」

あまりに東郷の優しい言葉に、胸の奥からジンと熱いものが込み上げてくる。
エリの言葉を遮るように東郷は言う。

『もう、謝るな。とにかくお前に何かあると俺の方が持たないから』

その意味をエリは仕事のことで東郷に負担を掛けてしまっていると受け取ったのだが、実際はそうではなく東郷自身の気持ちの問題なのだと知るのはもう少し先のことだった。


NEXT
BACK
INDEX
PERANENT ROOM
TOP


Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.