素直になれなくて
2nd STORY
STORY9
エリと磯崎は食事を終えて職場に戻ると、残していた仕事の続きに取り掛かる。
「磯崎さん、ここなんですけど」
「・・・・・」
わからないところを質問しようとエリが磯崎に声を掛けたが、反応がない。
書類を見たまま彼の顔を見ずに声を掛けてしまったので、何か取り込み中だったかもしれないなとそっと覗いてみたが、彼は瞬きもせず一点を見つめたまま何かを考えている様子。
「磯崎さん?」
「あ?あぁ…」
「どうしたんですか?私のせいで、よく眠れなかったからですね。ごめんなさい」
「いや、そんなことはないさ。で、何だ?」
「えっと、ここなんですけど―――」と書類と共に、磯崎のすぐ目の前までエリの顔が近付いて来る。
こんなことは話をする上で普通のことだし、それが例え女性だったとしても今まではなんとも思わなかった。
そう、今までは…。
「磯崎さん?」
「えっ、あぁ。それで、なんだっけ?」
「もうっ、ちゃんと聞いてて下さいよ」
「ごめん」
―――ダメだ…。
質問が、全然頭に入ってない。
彼女が俯き加減でちらっと書類に目を向けた時、睫毛が長くて綺麗だと思った。
そして、微かに感じる甘い香り。
―――何考えてんだ俺は、高校生のガキじゃあるまいし…。
突然、両手で自分の頬をパンッと叩く磯崎をエリは不思議そうな顔で見つめていた。
+++
一週間は意外に早く、今夜は一士に会える。
そう思っただけで心の中がウキウキしてくるのは、やっぱり愛しい人の側にいたいから。
そんなエリを隣で見ていた磯崎は、少し複雑だった。
新婚なんだし、週末だけしか一緒にいられないのだから、嬉しそうにしているのは当たり前のことなのに…。
というよりも、彼女は人妻。
自分がとやかく考えることではないことも、わかっている。
でも…。
何で、こんなふうに思うようになったのか…。
付き合ってきた女性のことはもちろん本気で好きだったけれど、四六時中相手のことで頭が一杯などどいうことは一度だってなかった。
それがどうだろう…。
仕事に集中している時以外は、なぜか彼女のことばかり頭に浮かんでくる。
―――俺は、こんなやつじゃなかったはず。
よりによって、絶対に好きになってはいけない女を好きになったということか…。
なんてこった…はぁ…。
磯崎は、ただ溜め息を吐くしかなかった。
◇
もうすぐ定時という時刻だったが、終えなければならない仕事はまだ残っていた。
なのに、週末は自宅に帰るからという理由で、このまま中途半端で投げ出すのはどうなのだろう…。
周りもエリが新婚だからとか、夫と離れて暮らしてるということにひどく気を使ってくれているのがわかっているだけに自分だけ甘えてもいいのかどうか。
そんな思いが彼に伝わったかは、わからないけれど…。
「あんた、帰らなくてもいいのか?」
「えっと、これだけは今日中にやっておこうと思って」
「あ?来週でいいぞ。無理に今日やらなくても」
「でも…」
「俺がいいって言ってるんだから、いいんだよ。こういうのは、メリハリが重要なんだぞ。だから、気にすることなんてない」
「磯崎さん」
言い方はつっけんどんでも、彼の顔はすっごく優しい。
でも、口では『来週でいいぞ』なんて言ってるけど、他部署からは月曜日の朝一番でってフォローされてるのを知っている。
「ほら、電車行っちまうぞ?ここは都会とは違うんだから、一本逃すと次はいつ来るかわからないんだからな」
こう言ってくれているのだから、彼の言葉をありがたく受けることにする。
「はい。では、お言葉に甘えて」
エリはパソコンの電源を切ると、急いで机の上を片付けた。
悪いと思う気持ちもあるが、それよりも早く帰って一士の顔が見たい。
「途中、気をつけてな」
「磯崎さんも、あまり無理しないでくださいね」
「あぁ」
「じゃあ、お先に失礼します」
「おつかれさん」という磯崎の言葉を背中に受けて、胸の奥がジンっと熱くなるのを感じながらエリはフロアを後にした。
エリを見送った後すぐ、机の上に置いてあった磯崎の携帯が震え出す。
―――健斗か?珍しいな。
携帯のディスプレイに表示された名前にそう思いながら、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あっ、亮治か?俺、健斗だけど』
「あぁ、どうした?珍しいな」
『たまには飲みにでもと思って、誘いの電話を掛けてみましたぁ〜。っつうか、忙しいのか?』
「忙しいけど、やる気もないし、パーッと飲みに行くか」
『そう、こなくっちゃ。だったら、いつものところで30分後ぐらいでいいか?』
「わかった」
―――あいつ、ワープでもして俺のこと見てたんじゃないのか?
錯覚するくらいのグッドタイミングで、電話を掛けて来た。
はっきり言って仕事なんてやってられない、そう思っていたところに同期で親友でもある榊 健斗からの誘いは正直ありがたかった。
磯崎はとっととパソコンの電源を切ると机の上にあった書類を適当に端に寄せて、「お先」と言い逃げするようにしてフロアを出て行った。
健斗が言っていたいつものところとは、年配の夫婦で営む小さな居酒屋。
入社して先輩に連れて来てもらってから、気に入ってよく通う店。
最近は忙しかったから、健斗ともここへ来るのは久しぶりのことだった。
「忙しいところ、誘って悪かったな」
「いや。お前が掛けて来なかったら、こっちから掛けるところだった」
ビールの大ジョッキで乾杯すると、豪快に半分くらい一気に飲み干す。
二人ともお酒は強い方だったから、これくらい軽いもの。
「お前んところに可愛い子が来ただろ」
「はぁ?」
―――可愛い子って…。
もしかして、それを聞くために俺を誘ったのか?
珍しく電話を掛けて来た健斗の魂胆がわかって、磯崎はガックリと肩を落とす。
「お前、それが聞きたかったのか?」
「当たり前だろ。お前が何も言わないから、こうやって俺が誘ったんじゃないか。で、彼女のこと詳しく教えろよ」
「あのなぁ…。言っとくけど、あいつは既婚者だ。もう、遅いよ」
「え…」
「そうなのかぁ?残念、一歩遅かったかぁ」と大げさに頭を抱える健斗を見ながら、『俺だって…』と心で呟くように言う磯崎。
「あれ?でも、どこか違う事業所から来たって聞いたけど、旦那はこっちの人だったのか?」
「新婚だけど、彼女は単身でこっちに来てる。相手は、神奈川事業所のやり手課長だそうだ」
「単身で?よく旦那は、そんなこと許したな」
「俺だったら、絶対辞めさせるけど」と、健斗は残りのビールを飲み干して磯崎の分もさっきと同じものを頼む。
磯崎だって自分がその立場だったら、健斗と同様なことを言っただろう。
好きな相手と離れ離れは、やはり辛いだろうから。
「その辺のことは、俺も知らないけどな。二人の問題だし、色々あるんじゃないのか?」
「まぁ、そうだろうけど」
「週末は家で過ごすから、さっき急いで帰って行ったよ」
「なるほどな。だから、寂しくなってお前も俺を誘おうとしたわけか」
ブッ―――
思わず、飲んでいたビールを吹き出すところだった。
―――健斗は、何が言いたいんだ?
「お前も運がないな。こんなリングまでしてさ」
左側に座っていた健斗は、磯崎の薬指にリングがはまっている方の手を掴んでマジマジと見つめる。
―――ゲッ…こいつ、俺の気持ちを見透かしてる?!
「どういう意味だよ」
その問いには答えず、黙々とビールを飲み続ける健斗。
会社に入ってから5年ほどの付き合いだったが、言わなくてもわかってしまう、妙に勘が鋭いところがあった。
だからこそ、頼ってしまう。
「ごめん。こればっかりは、俺には何もしてやれない」
その気持ちだけで、十分だった。
「いいんだ」
「でも、今夜はとことん付き合ってやるから」
―――今頃、彼女は特急電車の中だろうか?
そんなことを考えながら、磯崎は静かにビールを飲み干した。
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