美好ともえは少しだけ残業してから、もえの家に向かう。
滞在先のホテルはわりと会社に近かったから、電車に乗って帰るというのは美好にとってはある意味新鮮だったかもしれない。
「ホテルと会社の往復だけだったから、なんか楽しいかも」
「そうですか?誘っておいてなんですが、家はちょっと遠くてすみません」
「そんなことないのよ。もう犬丸主任とずっと一緒だったから、もえちゃんに誘ってもらってよかったわ」
―――昨日の今日じゃ、顔を合わせる気にもなれないものね。
グッドタイミングで、もえちゃんに誘ってもらえてよかった。
「犬丸主任、きっと寂しいですね。美好さんがいなくて」
「え?そんなこと…あるはずないわ」
「そんなことありますよ。さっき、犬丸主任に今日は美好さんが家に泊まりに来るんですよって話したら、すごく寂しそうでしたよ?」
―――雄斗が?
それは、私が自分を避けていると思ったからかもしれない。
実際そうなんだけど…。
雄斗のことが気にならないわけではないが、今だけでも忘れていたかった。
もえの家は洋風で、玄関先から庭までが綺麗な花で埋め尽くされていた。
母親の趣味らしいのだが、しょっちゅう旅行に行ってしまうので、その間世話をするもえは大変なのだそう。
「なんか、もえちゃんの家って感じがする」
「そうですか?美好さんは、ひとり暮らしなんですよね。私も、いつまでも親と一緒に住むのはどうかなって思うんです」
「えぇ?もえちゃんがひとり暮らしなんて、ご両親が許さないでしょ」
こんな可愛い彼女をひとり暮らしさせるなんて、危なくて絶対できないと美好は思った。
「そうでもないですよ?私が一緒に住んでるのって、留守番のためって感じですもの」
「ご両親も口ではそう言うのかもしれないけど。でも、芹沢主任が許さないでしょ?」
「はい。多分…」
「よね?芹沢主任はもえちゃんのこと、心配で心配でたまらない感じだもの」
「芹沢主任が心配なのは、別の意味でのことだと思います」
「別の意味?」
家にある程度の食材は買い置きしてあったが、プラスαの物を帰りがてらに近くのスーパーで買い足してきた。
もえはサラダを作りながら、会社に入社したばかりの頃の話をし始めた。
「私、ずっと女子校に通っていたのもあって男の人が苦手で、それを芹沢主任がさりげなく助けてくれたんです」
誰もいない書庫でひとり整理していると和也が入って来て、てっきり何かを探しに来たものとばかり思っていたもえだったが、実は上原課長から逃げてきたのだと。
男の人と自然に話ができたのも、可愛いと思ったのも初めてで。
それが、和也と話をするきっかけになったのだった。
「そうだったの。もえちゃんは、芹沢主任とは普通に話ができたのね?」
「はい。ずっと頼りっぱなしで迷惑ばかりかけて申し訳ないって思ったんですけど、俺が守るからって」
もえと芹沢主任の間にそういう経緯があったとは…美好は思いもしなかった。
恋が実るまでには、みんなそれぞれに事情があるのだと改めて感じる。
「ところで、美好さんは犬丸主任と何かあったんですか?」
「え?」
「隠してもダメですよ。ちゃんとわかってるんですからね」
チキンをトマトで煮込んだものが今日のメインディッシュ。
もえの得意料理らしい。
出張中は外食ばかりになってしまうから、手料理を食べるのも美好は久し振りだった。
それをダイニングテーブルに並べながら、もえの鋭さにも感心してしまう。
「バレちゃった?」
「はい。バレちゃいました」
可愛いだけではなく、こういう気遣いも彼女の魅力なのだと思う。
雄斗のことはなぜか友達にも話せなくて、もちろん社内で知る者もいなかった。
別に隠すつもりはなかったけれど、だからといって堂々と言えるものでもない。
二人はそんな曖昧な関係…。
「昨日ね、私から別れるって言ったの」
「え?」
美好の様子が少し変だったから、そう思って聞いてみたが、そんな重大な話になっていたなんて…。
もえは、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい。余計なことを」
「ううん、もえちゃんが謝ることなんてないの。本当は私自身、誰かに聞いてもらいたかったし、話たかったんだと思う。ただ、そのきっかけがなくて…というか、自分の中で勝手にそう決めてしまっていたのかもしれないわね」
「私でよかったら、あまりお役には立てないと思いますけど…」
「もえちゃんだから、聞いてもらいたいな」
相手がもえだから、美好もこんな気持ちになったのだと思う。
出張のメンバーに選ばれたことは今も納得できないけれど、ある意味それを決めた雄斗には感謝しなければならないのかもしれない。
「初めは、雄斗と同じ職場じゃなかったの。1年くらい前かしら、彼が別の部署から異動して来て一緒に仕事をするようになってね。付き合い始めたのも、なんとなくっていうのかな。はっきり彼に言われたわけでもないし、私も言ってないから」
雄斗が異動して来て間もなく、仕事が忙しくなり遅くまで残業が続くようになった。
お互いひとり暮らしだったから夕食を一緒に食べるようになって、酔った勢いで寝てしまったのがきっかけと言えばきっかけなのかもと今となってみれば思う。
そんな始まり方がいけなかったのか…。
恋愛の大前提である“好き”という気持ちすら、はっきりわからないなんて…。
「美好さんは、犬丸主任のことを好きなんですよね?」
「それがね、わからないの」
「わからない?」
純粋に和也のことを想っているもえには、美好の気持ちは恐らく理解できないに違いない。
「そう。こんなこと言うの、おかしいわよね。週末にもえちゃんが芹沢主任と動物園にデートに行くって聞いて、すごく羨ましかった。会ってすることと言えばセックスだけ…私、雄斗とデートらしいデートなんてしたことないの」
「セックス…」
大人の男女が恋すれば当たり前の行為なのかもしれない、しかし、もえには知識だけでまだまだ未経験のこと…。
「私は、雄斗にとって体だけの存在なのかなって…なんだかものすごく虚しくなって。昨日、彼に聞いたの。私のことが好きなのかって。でも、明確な答えは返ってこなかった。だから、別れるって言っちゃったの」
―――あの時、きちんと雄斗の口から“好きだ”と言われていれば…。
「もえちゃんは、そんなことないでしょ?芹沢主任は、そんな人じゃないものね」
「えっ、私は―――」
―――したことないって言ったら、美好さんはどう思うのかしら?
男の人はみんな、したいって思うのかしら…和也さんも…。
「もえちゃん?あっ、もしかして…」
たった今、もえから芹沢主任に会うまで男性が苦手だったと聞いたばかりだったのに。
付き合うこと自体初めてなら、経験がなくても当然で…。
「ごめんね、変なこと聞いちゃって」
―――雄斗との話を聞いてもらうはずが、もえちゃんを傷つけてどうするの…。
「いえ。あの…やっぱり、男の人はしたいって思ってるんですよね?」
「う〜ん、人にもよるでしょうけど、芹沢主任はきちんともえちゃんのことを考えているんだと思うわ。だから、もえちゃんがそのことで悲観したりすることなんて全然ないの。自然にそういう雰囲気になっていくはずだから」
「そうでしょうか…私がこんなだから…芹沢主任が我慢したりするのは…」
―――ここで『我慢しているでしょうね』とは、さすがに言えないわよね。
きっと芹沢主任の心の中では想像以上の葛藤があるはずだけど、それ以上にもえちゃんのことを想っているから。
「もえちゃんが、そんな心配しなくていいの。芹沢主任を信じていればね」
「そうですね」
―――私も、もえちゃんみたいな純粋な恋愛がしたかったなぁ。
今更思っても、遅いんだけど…はぁ…。
「さっき、美好さんは犬丸主任のことを好きかどうかわからないって言ってましたけど、私は好きだと思います」
「え?」
「だって、嫌いなら相手のことでこんなに悩んだりしないですよね」
確かに嫌いなら、こんなふうにウジウジしてないかもしれないけど…。
「そして、犬丸主任も同じだと思います。美好さんみたいな素敵な人を嫌いなわけないですもの」
「もえちゃん…」
「お互い、好きって言うのが恥ずかしいだけなんです。そう言う、私もなんですけど。勇気を出して言ってみたら、きっと仲直りできますよ」
もえが言うと、なんでも本当のような気がするから不思議だった。
―――雄斗に“好き”って言ってもらえなかったからって、別れるなんて…。
自分から言おうともしないで…。
雄斗のことを好きと確信した今、彼の本心はわからないけれど、“好き”って言葉にしてみようと思う美好だった。
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