「もえ、ちょっといい?」
午後も3時を過ぎた頃、小声で話しかけてきたのは同期の金田 美加(かねだ みか)。
美加とは部は違うけれど、仕事がらみでよくもえの部に来ることがあったから、そういう時は必ず声をかけてくれる。
「うん、いいよ」
もえが席にいたのでは話しづらいことだったのか、美加に目で訴えられてフロアの隅の方に足を運ぶ
「実はね、急に今日営業部の男の人達と飲みに行くことになったんだけど、女の子が1人足りないの。もえ、来てくれない?」
「え?」
一瞬、もえの顔が曇ったのが美加にもわかったのだが、それでも『お願い、ダメ?』と美加は下の方で手を合わせて、お願いポーズをとっている。
美加ももえが男の人が苦手だということは知っているから、今まで一度もこんなふうに誘ってくることはなかったのだが。
「もえが男の人、苦手って言うのはわかるんだけど、もえ可愛いからみんなが連れて来いってうるさいのよ。それにもえだって、いつまでも男の人を苦手って思ってるのもよくないでしょ?だから練習ってことで、お願い。ね?」
「そんなこと、急に言われても…」
いきなりこんなことを言われても、もえにはどう答えていいかわからない。
予定でもあればすぐに断ることができるが、今のもえにはきっぱりと断る理由が見つからない。
「お願い、もえ〜」
美加に根負けしたもえは危うく『いいよ』って言いかけた時、背後から芹沢の呼ぶ声が聞こえた。
「木下さん、ちょっといいかな?」
「はっ、はい」
「申し訳ないんだけど、今日少し残業頼めるかな」
「え?」
「何か、予定でもあるの?」
「あっ、そういうわけでは…」
ここは美加の誘いよりも仕事を優先させるのが、普通ではあるが…。
もえはちらっと美加の方に視線を向けると『仕方ないね』って顔で、黙って頷いたのが見えた。
「だったら、お願いするよ。明日の朝一番で使う会議の資料を今日中に仕上げないといけないんだけど、ちょっと俺だけじゃ無理そうなんだ」
「はい、わかりました」
―――芹沢主任のおかげで、助かったわ。
もえは、誰にも気付かれないようにふーっと息を吐いた。
「じゃあ、そういうことだから。金田さん、木下さんを誘うのはまた今度にしてくれるかな?」
そう言って、芹沢は去って行った。
美加ともえは呆気に取られた顔で、暫くの間芹沢の後姿を見つめていた。
―――もしかして、芹沢主任は私が困ってるのを知っていた?
これはもえの憶測でしかないけれど、芹沢はもえが美加に誘われて困っているのを知っててあんなことを言ったのかもしれない。
そんな芹沢の気遣いが、今のもえにはとてもありがたかった。
+++
芹沢に言われたことは本当で、もえは定時をだいぶ過ぎた今も会社に残って、資料を作成していた。
「ごめんな。せっかくの誘い、断らせて」
いつの間にか、もえの背後に立っていた芹沢が言った。
手には、コーヒーの入ったカップを2つ持っていて、1つをもえの机の上に置く。
『すみません、ありがとうございます』そう言って、もえはありがたくそれを頂戴した。
「いえ、芹沢主任がいいところに来てくれて助かりました。あ…の、もしかして主任は私が困ってたのわかっていたんですか?」
「っていうか、たまたま近くを通りかかったら話が聞こえてさ。木下さん困ってそうな顔してたから、ついあんなこと言ってた。でも、残業して欲しかったのは本当だから。ただ、もし木下さんが行きたかったのなら申し訳ないなって思ったんだけど」
「全然、そんなことないです。いきなり誘われたので、どうしようって思ってました。ありがとうございました」
―――やっぱり、そうだったんだ。芹沢主任は知ってて、言ってくれたのね。
「そんな、大袈裟なことじゃないけど。困った時は力になるからって、言ったろう?」
芹沢は、ニコッと微笑むと自分の席に戻って行った。
その笑顔がすごく爽やかで、思わずもえは見惚れてしまった。
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