「木下さん。今日、定時後予定ある?」
午後になって、隣のグループの片桐が小声で聞いてきた。
すぐに何かの誘いだとわかったが、今日に限って芹沢は出張で戻らない予定だし、真里も風邪で会社を休んでいた。
片桐はもえより2歳年上でグループは違うけれど、わからないことがあるとさり気なく助けてくれていた。
他の男性に比べれば、話せる方ではあったが…。
「えっと、その…」
「企画グループのやつらと飲みに行くんだけどさ、どうしても木下さんを誘えってうるさいんだよ。ちょっとだけでいいから来てくれないかな」
「でも、私は企画グループの方々とは面識もないし…」
真里がいるならまだしも、もえ1人で知らない人達と飲みに行くなど無理に決まっている。
「大丈夫だよ。みんな歳も近いし、そんなに堅苦しく考えなくても」
そうじゃなくて…遠まわしに断っているつもりなのだが、相手はそんなことお構いなしだ。
―――困ったなぁ…。
「じゃあ、そういうことで。場所はN駅の近くの居酒屋だけど、定時後すぐに出られるように準備しておいて」
「あの、片桐さんっ」
片桐は言い逃げして、自分の席に戻って行ってしまった。
―――どうしよう…。
はっきりと自分の意思を言うことができない自分に腹が立つ反面、芹沢や真里にいつも迷惑をかけていたのだなということに気付き胸が痛む。
もう社会人なのだから、もっとしっかりしなければ…それに断ってばかりでは、これから先会社の人達との交流もできなくなってしまうかもしれない。
それに男性ばかりだとはかぎらないわけだし、もえはこれを機に勇気を出して片桐の誘いに乗ってみようと思った。
定時までの間、この後のことが気になってとても仕事どころではなかったが、悩んでも仕方がない心を決めて臨むことにした。
+++
片桐と一緒に企画グループの人達と待ち合わせているという駅前の居酒屋へ向かう。
もえが緊張していたのがわかったのか、片桐は店に着くまで終始もえを笑わせるような話を選んでくれていたように思う。
店に入ると、既に企画グループの面々は集まっていたようだ。
席に着くと、なんとそこにはもえの予想に反して男性ばかりではないか…。
―――嘘…でしょ?
確認しなかった自分も悪いとは思ったが、まさか…普通で考えても女性が1人に男性が5〜6人なんてあり得ない話だろう。
「あの…片桐さん。他の女性の方は」
「あぁ、みんな都合悪くってさ。まあ、俺達は木下さんさえ来てくれればいいからね」
平然と言ってのける片桐が、恨めしい。
と今はそんなことは言ってられる状況でなくて、男性陣の視線が全て自分に注がれているのがわかる。
もえはまるで動物園のパンダにでもなった気分だったが、これはなんとかして途中で抜け出さなければ身が持たない。
「じゃあ、みんな集まったことだし乾杯するか」
片桐の号令で、ビールをグラスに注ぐ。
もえはお酒がほとんど飲めないからウーロン茶をお願いしますと言ったのだが、少しだけだったら大丈夫でしょ?と片桐に言われて断ることができなかった。
グラス半分で真っ赤になってしまうというのに全部飲み干せという、無謀な話だというのに…。
もえは、半ばヤケになってそれを受け入れてしまった。
***
一方芹沢は開発部のメンバーと顧客先で打ち合わせをしていたが、せっかく早く帰れるのだからと一杯やっていくことにした。
その中には仲のいい達彦も含まれていたから、もえのことを色々聞かれるであろう事は覚悟していたが…。
「あれ、木下さんじゃないか?」
店に入るや否や達彦に言われて視線を向けると、数人の男に囲まれているもえが目に入った。
まさかあの彼女がこんなところにいるはずがないと芹沢は思ったが、見間違うはずはない。
―――なんで、こんなところに…。
「あっ」
今日は、真里が風邪で休みだったということを思い出した。
そして、自分は出張に出ていたわけで…。
誰も邪魔が入らないこと、そして彼女が断れないのをいいことにうまく誘い出したのだろう。
片桐の、やりそうなことだ。
隣で一生懸命もえに話しかけている彼を見れば、それはすぐにわかること。
「彼女、大丈夫か?あんな、男どもに囲まれて」
達彦に言われなくてもそれは真っ先に芹沢も思ったところだったが、それよりもお酒が飲めないもえがビールの入ったグラスを持っていることの方が問題だった。
顔も、真っ赤だし―――。
―――マズイ。
「達彦、悪い先に行っててくれ」
芹沢は、達彦にそう言うともえ達のいる席に向かって歩き出していた。
「おいっ、お前ら」
「あぁ、芹沢主任。主任も飲んでたんですか?」
呑気に返事を返す片桐に芹沢は少し腹が立ったが、それよりも先にもえをなんとかしなければ。
「飲んでたんですか?じゃないだろう!木下さん、顔が真っ赤じゃないか。彼女、酒はまるっきし飲めないんだぞ」
芹沢の言葉に、皆がもえに視線を向ける。
顔が真っ赤だということもそうだが、心なしか呼吸も荒いように思える。
「木下さん、大丈夫か?」
もえは意識の朦朧とした中で、芹沢の声を聞いたような気がしていた。
でも今日は出張で、こんなところにいるはずもなく…。
「木下さん」
もう一度自分の名前を呼ばれて声の方へ顔を向けると、そこにいるのは間違いなく芹沢だった。
「芹沢主任、どうして…」
「あぁ、打ち合わせが定時で終わったんで、せっかくだからとみんなで飲みに来たんだよ。それより大丈夫?気分は、悪くないか?」
「はい、ちょっと…」
そのまま、もえは芹沢の胸元に倒れ込んでしまった。
「木下さんっ、大丈夫っ」
芹沢はもえにを横にさせると着ていたスーツのジャケットを脱いでかけてやったが、片桐のやり方が許せなかった。
「バカヤロウ!!酒が飲めないってのに無理に飲ませやがって。お前ら、木下さんにもしものことがあったらどう責任取るつもりだ!!」
いつも冷静沈着な芹沢が、声を荒げたことに片桐以下は驚きを隠せない。
近くに席を取っていた、達彦たちでさえもそれは同じことだった。
芹沢は急いで店員にタクシーを呼んでもらい、もえを家に連れ帰ることにした。
達彦に『何かあったらすぐに連絡して来いよ』と言われて、深く頷くと芹沢はもえを連れてタクシーに乗り込んだ。
それを片桐達は、ただ見守ることしかできなかった。
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