杏(あん)―――。
何で、俺を避ける…。
電話を掛けても全然出ないし、挙句の果てに着信拒否ってどうだ?
仮にも俺達、幼馴染みなんだぞ?
ちょっと、いやちょっとどころじゃないだろ。
酷すぎると思わないか?
メールなんか、何通送ったことか…。
あれも、迷惑メール扱いなんだろうなぁ…。
杏に避けられて以来、玲人(れいじ)は仕事もあまり手に付かない。
―――都合のいい女って、なんなんだよ。
まぁ、俺だってそれなりに女性との付き合いもあるにはあるが…。
でも、杏のことを一度だって、そんなふうに思ったことなんてない。
もしかして、俺がウザったくなったのか?
まさか…男…。
それはないっ!絶対にない…はず…。
「社長」
「・・・・」
「社長?」
不意に目の前に立っていたのは、玲人の専任秘書である野上(のがみ)。
他の役員達は女性秘書を置いているが、玲人は敢えて男性にしていたのは、色恋沙汰に巻き込まれたくなかったからだ。
「ぁあ?なんだ。入る時は、ノックするように言ってるだろ」
「何度もノックしましたが、応答がありませんでしたので」
「そっ、そうか。考え事をしていて、聞こえなかった」
「差し出がましいようですが、どうかされたんですか?」
数日前からこんな様子の玲人が、野上には少々気掛かりだった。
いつだってバリバリ仕事をこなす社長が、人が部屋に入って来たことも気付かないほど、ボンヤリしているのを見たことがなかったから。
「野上が心配するようなことじゃないさ」
―――俺としたことが、仕事に私情を持ち込むとは…。
杏のこととなると、どうもダメなんだよな。
そんなことを考えていると、聞き知った声と共に一人の若者が部屋に入って来た。
「玲人、入るぞ」
待ちくたびれたように野上の後ろから入って来たのは、正(ただし)だった。
応接室に通された正だったが、秘書の野上が玲人を呼びに行くと言ったきりなかなか来ないので、勝手に社長室まで来てしまったのだ。
「正、どうしたんだ?」
「どうしたって、今日は仕事の話をする約束だったろうが」
―――そうだった…。
すっかり忘れていたが、玲人の会社は正に経営全般のコンサルティングを任せていて、その件に関しての話をする約束をしていたのだった。
「そうだった。ごめん、すっかり忘れてた」
「オイオイ、忘れてたってなぁ。まぁ、いいや。俺も忙しい身なんで、手短に頼むよ」
「あぁ」
いちいち応接室に行くのも面倒だからと、正はそのまま社長室で話をすることにした。
野上が出て行くと、早速経営についての話かと思えば、そうではなく…。
「杏とは、どうなんだ。仲直り、できたのか?」
「えっ、あぁ。まだ…」
「そうか。二人とも変だし、俺さ、杏を誘って食事に行ったんだ。そこで、聞いてみたんだよ。玲人と何かあったのかって」
「それで?」
玲人は、杏とのことを正にも話していなかった。
それでも、長い付き合いの正には、何があったのかすぐにわかったのだろう。
「俺と玲人みたいな地位も名誉もあるやつが、自分みたいなどこにでもいる凡人と何で幼馴染なんだろうって。住む世界が違いすぎるってさ」
「はぁ?何だよ、今更。あいつ、そんなことを考えてたのか?」
「馬鹿馬鹿しい」と机を拳で叩く玲人に、正は自分が言ったことと同じように思っていたことを嬉しく思う反面、どうして杏があんなことを言ったのか。
それを今までずっと考えていた。
「最後に『玲人はあたしのこと、都合のいい女としか思ってないもの』って、言ってたんだけど、あれってどういう意味なんだ?」
「それ、俺にも言ってた。『あたしは玲人にとって当り障りのない都合のいい女なんかじゃないんだからっ』ってさ」
今までずっと、3人仲良くやってきて…とも、言い切れないが…。
男が2人に女が1人。
男と女の友情なんてものは、所詮綺麗ごとでしかないということ。
想像通り、要は正が杏を好きになってしまったわけだが、杏の心が玲人に向いていることは一目瞭然。
杏を好きなクセに友情だかなんだか知らないが、それを隠そうとする玲人に正は無性に腹が立った時期もあった。
色々あったけれど、正にはりみという愛しい彼女ができたわけだし、後は玲人と杏がくっ付いてくれさえすれば…。
そう思っていた矢先のこの状況は、非常に厄介だ。
「あのさ、お前の気持ちはどうなんだ?杏のこと。彼女だって、いつまでも子供じゃないぞ」
「わかってる。わかってるんだ、そんなこと」
玲人は椅子から立ち上がると、正とは視線を合わせずに窓の外をジッと眺める。
アリのように忙しく行き交う人々が見えた。
―――俺だって、杏のことは…。
それに正の言いたいことも、よくわかる。
わかっていても、怖いんだ。
想いを全部ぶちまけたところで、杏が自分のことをどう思っているのか。
「だったら、早く自分のモノにしろよ。グズグズしてないでさ」
「それができたら、苦労しないんだよ」
ドッカと大げさに椅子に座りなおす玲人を、半ば呆れ顔で見つめる正。
そういうところがダメなんだよな、玲人は。
臆病っていうか、なんていうか。
俺なんか、ダメ元で突っ走って撃沈したっていうのにさ…。
「俺を見ろ、俺を。例え気持ちが通じなくたって、こうやって幼馴染みやってられるんだから」
「正…」
「大丈夫だよ、お前なら。ただ、杏は不安なだけなんだ。自分なんかが、玲人の側にいるのは相応しくないって。それを取り除いてやれるのは、誰でもない玲人しかいないんだからな」
それには応えず、黙って小さく頷く玲人に正はようやっと仕事の話をし始めた。
+++
はぁ…疲れたなぁ。
少しの残業を終えて、家路に着く杏。
満員電車に揉みくちゃにされながらの通勤に会社では上司のご機嫌を取り、お局様のお小言に付き合わされて。
せめて住むところ位はと、食費や光熱費を切り詰めて借りた夜景の見えるマンション。
ここに帰って来ると嫌なことも疲れも、全部どこかに飛んでいってしまう。
そして、今夜はそんな夜景を見ながら一杯やろうと奮発して買ったカリュアド・ド・ラフィット。
杏には、四大シャトーもセカンドがやっと。
大事に手に持って、エントランスを入るとすぐに人影が見えた。
ここはセキュリティがしっかりしているから、外部の人間が勝手に中には入れない。
「お帰り、遅かったな」
「えっ、玲人?」
彼がここへ訪れたのは、引っ越しの日以来のことだった。
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