温泉ですっかりのぼせてしまった凪菜は、そのまま自分の部屋に運ばれた。
食事も取らずにずっと眠っていたが、その側にリュウジが付き添っていてくれたことも目を覚ました時には知る由もない。
「稟花ちゃん、大丈夫?気分はどう?」
「市野さん、私…」
「やっぱり、温泉はきつかったみたいね。のぼせちゃったみたい」
布団に寝かされていた稟花の視界には、木の天井と市野の顔だけ。
まだ凪菜の頬はほんのりと赤く染まっていたが、段々と記憶が蘇ってきて撮影が上手くいったのかどうか、急に不安が込み上げてくる。
「撮影は」
「それはもう、バッチリ。今までで、最高の作品になることは間違いなしね」
好き合っている二人を知っている市野には微かではあったが、リュウジが凪菜に言った愛の告白を耳にしていた。
だからこそ、ラストを飾るには相応しい最高の作品に仕上がったのだと思った。
「そうですか、良かった」
―――良かった。
せっかく、ここまで撮影に来たのに自分のせいで上手く撮れていなかったら…。
リュウジさんにも申し訳ない。
そうだ、リュウジさんは。
忙しそうだったから、泊まらずに帰っちゃったのかしら。
男優さんと話をすることはあまりなかったけれど、この機会にできればもう少し話をしてみたかった。
別れに悔いが残らないよう…。
「お腹空いたでしょ?すぐ、夕食の用意をしてもらうわね」
「すみません。ご迷惑をお掛けして」
「いいのよ」
市野が出て行くと、凪菜はゆっくりと布団から起き上がって窓の外の景色を眺める。
夜の闇にライトアップされた庭園は、昼間に見た景色とはかなり違って幻想的だ。
―――リュウジさん…。
ガラスに映る自分の姿を見つめながら、凪菜はポツリと呟いた。
暫くして、仲居さんが食事を持って来たのだろう。
入口の戸を叩く音がして、凪菜は「どうぞ」と返事を返すが…。
「稟花ちゃん」
「えっ、リュウジ…さ…」
突然入って来たリュウジに凪菜は、目を見開いたまま言葉を失った。
逢いたいとずっと思っていたけど、まさか部屋に来るとは…。
後ろから市野が入って来るのではないかと思ったが、幸いなことに誰も来る気配はない。
「ごめんね、部屋まで来ちゃって。食事を一緒にと思ったんだけど、迷惑だったかな」
市野に頼んでというか、彼女の計らいにより、リュウジは凪菜と二人っきりで食事を取ることを許してもらう。
本人が嫌と言えば、それは仕方のないことだけど…。
「いえ、迷惑なんて。リュウジさんこそ、いいんですか?私と一緒で」
「もちろん。こんな機会は滅多にないというか、これが最後になるかもしれないから」
―――最後…。
その言葉が、凪菜の心を締め付ける。
こうしてリュウジさんと食事を取るのも、最初で最後になってしまうのね。
辛い気持ちを抑えながら、二人は向かい合って座卓の前の座椅子に腰を下ろす。
撮影の時にしか顔を合わせていなかったせいか、面と向かって顔を見られるのも彼の顔を見るのもすごく恥ずかしい。
「稟花ちゃん、まだのぼせてる?」
「えっ、いえ」
「そう?顔が赤いから」
顔が赤いのは恥ずかしいから、だとは何となく言えなかった。
そのすぐ後に今度こそ仲居さんが食事を運びに来たが、その間はもっと恥ずかしくて凪菜は俯いたままだった。
傍から見たら、今の二人はどういうふうに映るのだろう?
恋人同士?多分、不倫には見えないと思うけど…。
「稟花ちゃん、お酒は飲めるのかな?」
「はい。もう、21歳になりましたから」
「そうなんだ。ってことは、大学生とか?ごめん、余計なことを聞いて」
リュウジは凪菜が21歳と聞いて、それくらいの年齢かとは思っていたが、実際若いなというのが本当のところ。
礼儀正しい彼女を見ていれば恐らく大学生、それもかなり優秀な。
「いえ、気にしないで下さい。今は、桜花女子大の3年です」
「桜花?」
…やっぱり。
名門女子大に通うお嬢様がなぜ、AV女優など…。
そういうことをリュウジは特別気にしていなかったが、これを聞いてしまえば余計なことを考えてしまう。
「はい。市野さんにも話してないんですけど」
「それをどうして俺に?」
「どうしてでしょう。リュウジさんには、話しておきたいって思うんです」
凪菜は用意してあったビール瓶を手に取るとリュウジのグラスに注ぐ。
誰にも、自分の本当の姿は言わないと思っていた。
でも、リュウジにだけはどうしてか話しておきたいと思うのは、全てを知っていて欲しいから。
「じゃあ、稟花ちゃんも一杯」
「少しだけ。私、あんまりお酒は強くないんです」
凪菜がそっとグラスを差し出すと、リュウジはそこに半分だけビールを注ぐ。
そして、二人はグラスをカチンとぶつけ合う。
冷たいビールが喉越しを通り抜けて、気持ちいい。
「俺の名前は広岡 竜司、26歳。商社勤務」
「え?」
いきなり言われて何のことか理解できなかった凪菜だったが、時間が経つにつれ、これが彼の姿なのだと実感する。
―――広岡 竜司さん。
そのままの名前だったことにちょっと驚いた。
そして26歳、商社勤務だなんて…。
自分も女子大生で人のことは言えないけれど、そんな人がなぜAVに…。
「俺が何で、AVの世界に足を踏み入れたかは後でゆっくり話すよ。料理が冷めないうちに食べよう」
「そうですね。私、急にお腹が空いてきちゃいました」
目の前に並べられた料理は、どれもこれも素晴らしいものばかり。
お腹が空いていたことを思い出したように「いただきます」と、凪菜は料理に箸をつけた。
「美味しいです」
「市野さん、相当奮発したな」
竜司も凪菜に続いて料理に箸をつけたが、それは目も舌も堪能させるものだった。
さっきの色っぽい凪菜の一本が世に出れば、これくらい安いものかもしれない。
「稟花ちゃん、これすごく美味いよ」
「凪菜です」
「ん?」
「私の名前は、榊 凪菜って言います」
頬がピンク色の染まっているのは、ビールのせいなのか?それとも…。
はにかみながら、名乗る凪菜はとても愛らしく竜司の心を駆り立てる。
…榊 凪菜。
いい名前だな。
「凪菜」
名前で呼ばれて、凪菜の胸はジンッと熱くなる。
――― 一生、呼ばれることなんてないと思っていたのに…。
知らぬ間に凪菜の目から、一筋の光が頬を伝っていた。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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