稟花とリュウジの温泉シリーズものは、市野の想像を遥かに超えるヒットとなった。
純情派で通っていた稟花の奥底に眠っていた大人の女性の魅力と、特別な相手であるリュウジとの偽りのない愛が映像に映し出されていたからかもしれない。
そして、どこからか彼女の引退説が浮上し、惜しむ声も聞かれたけれど、想いが通じ合ったことを知っていた市野は二人を引き止めることはせず、逆に心から祝福して送り出してあげることに決めた。
ラスト5本とは言ったが、実質これが最後の作品になることはほぼ間違いない。
「稟花ちゃん、元気でね」
「市野さんには、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
礼儀正しく頭を下げる凪菜(なぎな)に、「ううん、そんなこと」と市野の表情は少し寂しそうだ。
決して胸を張って言える仕事ではなかったし、できることなら誰にも知られず記憶を封印してしまいたいはず。
凪菜(なぎな)のように男の人も知らない純情な女の子が軽い気持ちで飛び込んでこられるような世界ではなかったから、ここまでよく頑張ってきたと思うし、真実の愛を見つけることができて心から良かったと。
竜司ならきっと凪菜(なぎな)の全てを受け入れて、守ってあげることができるはずだから。
「稟花ちゃんに会えなくなるのは寂しいけど、いつでもあたしのところへ遊びに来てね」
「市野さぁん…」
「稟花ちゃん、永遠の別れじゃないんだから」と、市野は涙目の凪菜(なぎな)の背中をポンポンと叩く。
凪菜(なぎな)にとっては実の兄弟よりも市野は姉のような存在だっただけに、もちろん彼女の言うように永遠の別れではないとわかっていても、やはり辛かった。
「リュウジさんと仲良くね」
「はい…」
AVとは今日でお別れするけれど、これから新しく竜司との関係が始まるのだ。
恋人として。
+++
「竜司さん」
駅での待ち合わせ、少し早めに着いてしまった凪菜(なぎな)は竜司の姿を見るや否や名前を呼ぶと、小さく手を振って微笑んでいた。
その姿を見た竜司は、あまりの可愛さにハートを一撃されてしまう。
いや、されない方がおかしいだろう?
「凪菜(なぎな)、ごめん。遅くなって」
「いいえ、でも竜司さん。お仕事、忙しかったんじゃないですか?」
「仕事?そんなの平気、平気」
学生の凪菜(なぎな)に比べて、一流商社でバリバリ働いている竜司は仕事が忙しくてなかなか自分の時間も取れないはず。
―――それなのに『平気、平気』なんて、大丈夫なのかしら?
「無理してません?」
「全然。それより、お腹空いてない?」
「えっ、はい」
「じゃあ、凪菜の好きなもの食べに行こう。何がいい?」
「あっ、何でも」
「何でもかぁ、う~ん」と、真剣に考え込んでしまった竜司が何だかとっても凪菜(なぎな)には可愛らしく見えて、思わず笑みがこぼれた。
仕事以外で、こんなふうに彼と会える日が来るとは思わなかった。
ものすごく恥ずかしいと思ってしまうのは凪菜(なぎな)だけではなくて、それは竜司だって同じこと。
さり気なく指を絡めると、ほんのり頬を染める彼女のそこに思わずくちづけた。
「…りゅっ…じさんっ、こんなところでっ…」
―――こんなに人目の付くところで、キスなんてっ。
頬を掠める程度のものでも凪菜(なぎな)には恥ずかしい以外の何者でもなかったのは、映像の中での作られた恋愛しかしていなかったから。
それは、永遠に想いが通じ合うことのない擬似恋愛。
「凪菜(なぎな)が、あまりに可愛いからだよ」
「竜司さんに言われると、本気にしちゃいそう」
「本気にしていいよ。でもさ、これじゃあ男が放っておかないだろう?」
「こんなに可愛くて」と言葉を続ける竜司の表情が変わったのは、顔は元々可愛らしかったが、仕事の時とはまた違った素の彼女を見たからだろうか。
これが自分に会うためだとしたら嬉しいけれど、周りの男の目が気になって仕方がない。
「大丈夫ですよ。女子大ですから」
クスクスと笑う凪菜(なぎな)だったが、彼と恋人になったことで真面目で目立たない自分に変化が起きたのは確か。
やっぱり、好きな人の前では可愛くありたいと思うのは、恋する乙女なら誰だってそうだろう。
初めは大学でもびっくりされたけれど、今ではそれもすっかり慣れて、友達とファッションの話に花を咲かせたり、ずっとできなかった年頃の女の子が普通にすることを満喫している。
「そういう問題じゃないと思うんだけど」
竜司の心配の種は尽きないが、AVの世界の中だけではなく、これからはずっと彼女の笑顔を隣で見ていることができる喜びの方が大きかった。
◇
食事を終えて店を出ると凪菜(なぎな)が急に無口になってしまったのは、竜司と離れたくなかったから。
温泉での撮影で泊まって以来、両親も凪菜(なぎな)の行動に対してうるさいことを言わなくなったし、服装や髪型の変化についても半ば容認していたのは、彼女も二十歳を過ぎた大人なのだと理解したからだろう。
「あの…竜司さん」
「凪菜(なぎな)」
二人が口を開いたのは、ほぼ同時だった。
「何?」
「いえ、竜司さんから先にどうぞ」
「うん。門限とかどうなのかなって」
「門限ですか?以前はありましたけど、今はあってないような。今日中なら、大丈夫だと思います」
「今日中かぁ」
腕時計を見つめながら、考え込んでしまった竜司。
今日中に凪菜(なぎな)を家に送り届ける時間を入れると、タイムリミットは2時間しか残っていない。
竜司のマンションに連れ帰ったら、その時間はもっと削られてしまうだろう。
せっかくのデートに不本意ではあるが…。
「凪菜(なぎな)、行こう」
「行こうって、どこへ?竜司さん?」
「ちょっと」と凪菜(なぎな)が問い掛けるよりも早くいきなり竜司に手を引かれ――― 一体、どこへ行くというのだろうか?
わからないまま繁華街を抜けて着いた先は、妙に賑やかなリゾートの雰囲気漂う建物の前。
「ここは?」
「説明している時間がないんだ。とにかく中に入ろう」
彼に背中を押されるようにして中に入ったが、そこは凪菜(なぎな)も初めて足を踏み入れる場所。
というよりも、誰とも付き合ったことがない彼女にはもちろんそのはずなのだが…。
「えっ、竜司さん…もしかして…」
「ごめんな、こんなところで。俺のマンションに連れて行ったんじゃ、門限に間に合わないから」
「好きな部屋を選んでいいよ」と言われても…。
世のカップルには色々事情というものがあるわけで…こういうところへ来ることが、凪菜(なぎな)だって悪いとは思わない。
でも…どうにも目的が明確過ぎるような気がして、どう受け止めていいのかわからなかった。
「えっと、この部屋で」
とは言いつつも、凪菜(なぎな)は竜司に言われた通りに選んだのはアジアンテイストのシックな部屋。
想像ではこの手のホテルはもっとギラギラしているのかと思っていたが、今はなかなか落ち着いた部屋も多いのだなと感心したりして…。
撮影で使われていた場所はマンションの一室とか殺風景なところが多かったから、これからは仕事ではないとわかっていても顔が火照るのはなぜだろう。
「二人っきりになりたくて。凪菜(なぎな)が嫌なら何もしない」
「竜司さっ―――」
部屋に入るなり、竜司に包み込むように抱きしめられた。
―――私だって、二人っきりになりたかったの。
凪菜(なぎな)は、存在を確かめるようにそっと彼の背中に腕を回す。
ただ抱き合っているだけなのに、心臓が口から飛び出してしまうのではないかと思うくらい緊張する。
他の誰も見ていないし、二人だけのはずなのに…。
何度も交わした触れるだけの優しいくちづけにも、今夜は体が震えて止まらない。
「どうしたの?俺が怖い?」
「ちがっ―――わからないんですけど、すっごくドキドキして…」
本当の恋愛というものはこうなのかもしれない、いや、本当だからこそこんなふうになってしまうのだろう。
竜司は、小さく声を上げた凪菜(なぎな)を抱き上げるとベッドに沈める。
目をまん丸に見開いた彼女はさっきよりももっと震えているように感じたが、竜司は凪菜(なぎな)の横に添い寝をして肩を抱き寄せると額に軽くくちづける。
すぐにでも押し倒してしまいたいところだったが、今の彼女には恐らくこれが精一杯だろう。
「竜司さん?」
―――竜司さん、怒っちゃったのかな。
私がこんなだから…。
決して怖いわけじゃないの、それだけはわかって欲しい。
「何かいいな、こういうの」
「え?」
「凪菜(なぎな)が、初々しくってさ。だけど、困ったことに余計にソソられる」
彼女がAV女優だったのだということがどうとか、自分だってAV男優だったのだから、そんなことは竜司に関係ない。
体を何度となく合わせても、一向に慣れない彼女が愛おしくさえ感じる。
「怒ったんじゃ」
「そんなわけないだろう?まっ、辛いのは確かだけど。今度は俺の部屋で門限を気にしなくてもいいようにちゃんと外泊の許可をもらってからにしよう」
「ごめんなさい」
「凪菜(なぎな)は、いっつも謝ってばかりだな。それは、何のごめんなんだ?」
そう言われると、言葉に詰まってしまう。
門限なんてものがあるばっかりにゆっくり逢えないし、いざとなったら彼に我慢をさせてしまう。
彼は謝ってばかりと言うけれど、こんな面倒な女と付き合わない方がいいのかもしれない…。
「いいよ。何も言わなくて」
恐らく竜司は、凪菜(なぎな)の言おうとしていたことがわかっていたのだろう。
遮るように唇を塞ぐ。
「竜司さん…私…」
「俺のこと、好きって言って」
「好きです。竜司さんが」
…好きって言葉だけで、俺は何もいらないんだ。
「俺も好きだよ、凪菜(なぎな)」
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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